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『菅江真澄集 第5』(秋田叢書刊行会, 1932), pp.245,246
舊烏銕川をわたりて、上烏銕の浦といふやかたに巳のとき斗につく。
此浦人はもと蝦夷の末ながら、ものいひ,さらに,ことうらにことならず。
近き昔とやらんに鬚そり、頭そりて、女も文身あらて、そのけちめなし。
うらのをさ四郎三郎といふかもとに宿かる。
むかしは浦うらに蝦夷や多かりけん,にぎえそ (和人の生活に同化したアイヌ),あらえぞ (同化しなかったアイヌ) なともはらいへり。
猶ありたりし袰月の弊岐利婆か末の子を又右衛門といひ、
松か崎の加布多以武,その末を今は治郎兵衛といひ、
藤島の牟左訶以武,いまその末は清八とひ、
宇氐通のの久麽他可以武か末なるは,此宿のあるしの四郎三郎なり
此四人の保長とて、濱名浦の七郎右衛門をいまもおやかたといひ,としのくれなとには刀万府てふ、海狗(とど)に(似)たくふ,うな(海)のけものを小島のあたりにとりて,その濱名のをとながもとに土毛にをくりたりしよし。
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