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柳田国男 (1911)
現今のイチコは単身にて漂泊すれど家を移して行くことなし。
一家族を挙げて終始漂泊的生活をなすものは今日別に一種族あり。
多くの地方にてはこれをサンカと称す。
サンカの語にもまたいろいろの宛字ありて本義不明なり。
すなわちこれを散家と書するはかの徒の家が固定せざるがため、山家、山稼と書するは、山の陰などに仮の住居を作り盗伐をもって生を営むがため、また、山窩の文字を用いるは岩の窪み土窟の中などにいるがための宛字らしけれど、ともにいまだサンカという語の意味を説明する者とは信ぜられず。
サンカの生活状態については言うべきこと多し、無頓着なる人にはこれをもって乞食の別名のごとく考うる者もあれど、サンカはたとい全然物貰いを止め一地に定住して村落をなしてもやはり一の特殊部落なり。
大阪その他の市街地にはこの徒の混入して常人の職を営む者あり。
または荒野、河原などの不用地において居住を公認せられ戸籍に編せらるる者だんだん多くなる傾きあれども、この徒の特色として農業を好まざるゆえに土地との親しみ今なおはなはだ少なきなり。
もしそれ漂泊するサンカに至りては、旅人もし少しく注意すればしばしば途上にて遭遇することを知るなるべし。
衣類など著しく普通民より不潔にして、眼光の農夫に比してはるかに鋭き者、妻を伴い小児を負い、大なる風呂敷に二貫目内外と思わるる小荷物を包み、足拵えなどはずいぶん甲斐甲斐しきが、さも用事ありげに急ぎ足にて我々とすれちがうことあり。
これたいていはサンカなり。
彼等はジプシイなどと異なり決して大群をなさず力めて目立たぬように移転す。
一月二月間の仮住地においても小屋の集合すること二戸か三戸に限り、かつその地を択ぶこと巧妙にして、人里に近くしてしかも人の視察を避くるの手段最も周到なり。
たとえば京都にては東山にこの者住することを知れども、その場所を突き留むること難く、東京の西郊二三里の内にも多分サンカならんかと思わるる漂泊者の小屋掛けあるなれど、警察官すらその出入りを詳にせざるがごとし。
サンカは外部の圧迫なき限りは、たいてい夏冬の二季にのみ規則正しき移動をなし、その他はなるべく小屋を変えざるに似たり。
夏はすなわち北方または山の方に、冬はこれに反し南方または海の方に近づき気候に適応すること候鳥と同じ。
彼等の最も好むは川の岸なり。
その理由は水筋に沿いて上下するの便あると、水を得やすきと魚を捕え流れ物を拾うとの利あるほかに、川端は遠方より見らるる虞あるに似たれど、川除地には竹薮多くして密陰をなし小屋掛けの手数少なき上に、無代にて手工品の原料を得るの便もあればならん。
彼等の簡易なる建築にては、風呂敷はすなわちテントにて、油紙は常にこれを所持しこれを重ねて雨水を凌ぐ。
家具としては二三の食器刃物などあるのみ、その他は到る処自由に採取調製して用を弁ず。
大垣警察署長広瀬寿太郎氏は、明治二十六年以来サンカの問題に注意し、種々なる方面より彼等の生活を研究したる人なり。
本年の旅行において知り得たる左の諸点は、サンカの来由を明らかにするために最も肝要の者なるが、その大部分は右の広瀬氏より聞けり。
今順序を立ててこれを述べんに、
第一サンカには種類多く中にはまったく乞食と縁なき者あることなり。
サンカの中にて野外に小屋を作り魚を捕りササラ、箒、草履などを作りて売り、または人の門に立ちて物を乞う者はセブリという一種なり。
セブリは数において最も多けれどもこの他になおジリョウジ、ブリウチ及びアガリという三種あり。
彼等はいずれも小屋を掛けず木賃宿または善根宿を求めて宿泊しやはりまた一所不住なり。
警察道に熱心なる広瀬氏の眼より見れば右の四種のサンカはただちに四種の犯罪団体なりともいい得るがごとし。
ことに後の三種に至りてはその社会に及ぼす害きわめて小ならず、しかも彼等の犯罪はおのおの一定の手筋ありて容易にいずれのサンカに属するかを知り得る由なり。
すなわち右の中にてジリョウジというは、必ず神仏の霊験に仮托して詐偽をなす。
その手段は『杜騙新書』などにあり得るがごとき古臭き者なれど、愚民のこれに欺かるるもの年々絶えず。
たとえば婦人の顔の色悪き者などを見て、何々の崇りなり何々に祈祷してやらん供物は百種を調進せよ。物調わずば金を包みてかりにこれを供えよと命じ、数日往来の間に隙を見て盗み去るなり。
ブリウチの手口はややこれと異なり。
神仏を仮托することは同じけれど、こちらは霊薬または霊符などと称して、埓もなき物を高く売りて行くなり。
アガリと称するサンカは常に、難船して郷里に帰るあたわずとか、または親族を頼りて遠くより来たるに大火の跡にて行方を知らずとか、ありそうなる不幸話をして人の恵与を詐取するなり。
しこうして三者ともに最初の計画失敗すれば、多くは転じて破壊窃盗をなす云々。
広瀬氏の観察にては、セブリもまた主なる職業は窃盗なりといえり。
わずかばかりのササラ、箒などを売りても衣食に給すべくもあらず、川魚などもさまでの収穫ありとは思われず。
ゆえに乞食をして不足なる部分は常に他人の所有物より内々補充すと推測したるなり。
なるほどサンカはよく掻払 [かっぱらい] をなす。
自分も幼少の折に四つ身の着物を乞食に持ち行かれたることあり。
一里ばかり追い掛けて捕えたるに五十余の女サンカなりき。
かかる例は郷里にてしばしばこれを聞けり。
その他山の物田畑の物にても、入用の都度これを取るを意とせず。
しかれどもこれ等の侵害の多くは、財貨に対する観念の相異に基づくものというべく、だいたいよりいえばこの部類と我々との関係は平穏なる交通なり。
ただ彼等の間において犯罪の歩合やや多きがゆえに余分の警戒をなす必要あるのみ。
サンカの徒が普通人の零落して、たまたま変形したる者にあらざる一証としては、彼等の間に完全なる統一と節制とあることを述べざるべからず。
もちろん常民のこの仲間に混入したる者は少なからざらんも、これ等一代サンカは決して勢力を得るあたわざるのみならず、十分に既存の不文法に服従し去り、ついにかの徒の慣習の一部分をも変更しあたわざるがごとし。
サンカには地方ごとに必ず一の親方あり、その権力はなかなかに強大にして、時としては部内の美女を択ぴ二三人の妾を持つ者あり。
(サンカには美人多しと称す)
最も広瀬氏の談に、尾張・三河・美濃三合の境に三国山という松山あり。
ある時この山中にサンカの大集合あるを見たり。
小屋の数は百を超え炊煙の盛んなること夏季の軽井沢・比叡山のごとくなりき。
しこうしてかくのごとき大部落は永く継続することなくほぼ二三日をもって散じ去るものなるが、後に及び毎年一回この地において会をなし仲間の婚儀を行うものなることを知れり云々。
これ等は小屋掛けをなすサンカすなわちセブリの習慣なれど、他の犯罪団体の方にもおのおの親方ありて部下を統率し相互に有力なる援助をなす者のごとく、たとえばある村に施を好む富豪あり、または永煩いの病人などのために祈祷加持に手を尽す家あれば、甲より乙に速かにこれを通知しいろいろのサンカの来訪する者絶えず。
また彼等の仕事に都合よき村落の報謝宿のごときは、一覧表のごときものにてもあるにや。
聞き伝えて来たらざることなし。
およそこの徒の数全国を通じてきわめて多く往来錯綜を極めたるに、途上に相見ていかにして互いにサンカたるを認むるか。
おそらくは掏摸などと同様に、綿密なる暗号または作法等の存するならんも、規律厳にして外間にありではこれを知るあたわず。
たまたま一二のサンカの職を得て土着せる者などを賺し実を吐かしめんとするも、仲間の制裁を怖れて決してこれに応ぜず。
またこれ等の者の中には他日意外なる惨殺に遭いたる者も少なからずという。
この文を草する時まで不明なるは、サンカの種々の名称が自称に出でしか、また他称に基づきしかという問題なり。
この徒はいかなる場合にも身分を自白することなければ、仲間において何と称するかを知るあたわず。
稀に定住して村をなせる者はこれに対して汝はサンカなりやと問うにしかりと答うるのみ。
またセブリ等の四種の名目も果して我々の推測のごとくなりや否や、いまだこれを確かむるの道なきなり。
外部よりの称呼としては少なくも関西地方にてはサンカの語最も弘く行わる。
あるいはこれをオゲと呼ぶ者あり。
またノアイとも称す。
その生活状態に基づきてはあるいはこれを川原乞食と呼ぶ者あり。
ポンスまたはポンスケと呼ぶはこの徒が川漁に巧みにしてことに鼈を取るに妙を得たるゆえなり。
ポンスは鼈の隠語なり。
オゲという語はいまだ解を得ず。
ノアイは野合にして郊野に居を占むることを意味するがごとし。
行政官は古語を愛せず単にこれを浮浪者と呼べり。
サンカの人口は予想外に多し。
大阪の附近にはその数一万三四千ありという。
河川の改修及び人家の増加によりおいおい小屋掛けの適地を失い、是非なく市中に入りて安宿等を根拠とする者多し。
早くその生活を調査せざれば、ついにこの興味ある問題を逸し去るの虞れあり。
ことに近来に至り、警察の圧迫ようやく強大となりたるため、我々の観察にはいっそう不便となれり。
しかれどももし自分の想像するがごとく、自他ともにサンカの名を用いざるも宿泊の材料と少量の家具とを携帯して、郊野に仮居する者をもって皆この部類に属するとせば、この徒の分布ははなはだ広大にして、警察上の一大問題なると同じく文明史上の研究としても決して閑却すべき現象にあらざるなり。
今少しく東国における漂泊者の事を記述せんに、まず東京の周囲にもいわゆる乞食の仮住地あることを往々にしてこれを耳にす。
和田堀之内より大宮八幡辺に掛けての松山雑木林の奥などにこの類乞食の住む者ありということ、新聞の三面に何かのついでに記載せしこと数回なり。
石黒君の話に、十年ばかりも前には高田馬場の射的場の後の辺、今山手線の停車場となれる附近にもよく小屋を見しことあり。
狩野博士は二三年前に南郊馬込村の辺へ地面を見に行かれしに、やつれたる小児の薬鐘に水を汲みて林の中へ入り行くを見て、跡をつけたれば丘の陰にしばらく住みたるらしき小屋あるを見られたり。
また東北地方にても磐城相馬郡の石神村などに毎年来往する数家族あり。
二宮徳君の談にこの村の外山には山腹には十数の土窟あり。
村民この穴より煙の出づるを見て、今年も来ていることを発見す。
この地方にてはこれをテンパという。
ササラまた箒などをも作りて売れど、主としては農家の箕を直すをもって活計とす。
村民とは年久しき馴染となりおり。
テンパの女房は家々を廻り注文をきき箕を持ちてその土窟へ帰り行く由なり。
右の箕直しの職業は関東いずれの地方にても特殊部落に属するものにて、サンカ問題についてはきわめて重要の観察点なりとす。
昨年暮茨城県にて特殊部落の調査をなせしが、常陸にては所在十数所の箕直し部落あり。
これは一定の地に家居するも、男子は箕直しのために村々を巡業す。
しこうしてこの徒の中には破壊窃盗を常業とする者はなはだ多く、箕直し村へ来れば民家にても警察にても非常に用心を加う。
鋭利なる刃物を有し切り破りの手口に特色あること西部のサンカとよく似たり。
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- 引用文献
- 柳田国男 (1911) :「「イタカ」および「サンカ」 (二)」, 人類学雑誌, 1911
- 『柳田國男全集 4』, ちくま文庫, 1989.
- 『サンカ──幻の漂泊民を探して』(シリーズ KAWADE 道の手帳), 河出書房新社, 2005. pp.136-153.
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