Up ポン 作成: 2025-01-22
更新: 2025-01-22


      柳田国男 (1920)
     海抜千五百尺の高寒なこの村にも、ポンの往来する大道は幾筋か通っていると見える。
    どの山あい越えるのか、(みち)で遭ったという人も聞かぬが、今まで一年として来なかった年もなく、いつの間にかちゃんと来て小屋を掛け、つつましく煙を揚げている。
    部落からやや離れた山の蔭の、樹林を隔てて水の静かに流れる岸などが、この徒の好んで住む地点である。
    あるいは往還から下手の日当りに、子供まじりの人声を聞くことがある。
    普通の里人なら必ず顔を出してこちらを見るが、足音を止めると話し声を絶ち、物色しようとすればいよいよひっそとなるのはポンである。

     馴れたらこうもなるものか。
    村の人は年々来る彼等を、軒の燕ほども注意しておらぬ。
    同じのが来るかどうかを尋ねても、確かな返答は得られない。
    男は朝から川に入っていて顔をまるきり見せぬ。
    捕った物を売りに来るのはたいてい子持ちの女だが、どうも一つ顔だったように思うとある。
    この程度の交通だから、ポンも安気に住めるのである。
    竹籠の類も作って持って出るが、主たる渡世は川漁で、中にも亀類はよく捕る。
    我々には想像も付かぬ小流れから、ちゃんと亀の穴を見出して、いればきっと捉える。
    ポンまたはポンスケの名も多分は(すっぽん)から出た我々の命名であろう。
    オゲというのも川魚漁具の名が元らしい。
    警察はサンカ、または箕直(みなお)しなどとも呼んでいるのである。

     引揚げ前にはこそこそを働くから、警察では注意するというが、おそらくは盗難のない限りは注意せられておらぬのであろう。
    来れば一世帯ずつで、群をなすというまででは昔からなかったが、近年数の減じたのも事実だろう。
    それは田舎の渡世がだんだんむつかしくなり、これに反して大都会には紛れて住みやすいからである。
    ポンから見れば離散背叛(はいはん)、我々から言えば半分の帰化が多くなりそうな道理である。
    やって来る季節もあるはずだが、それほどよく視察した人もない。
    寒くなれば浜手へ下る都合から言うと、この辺には秋の末の今頃来ていることと思う。
    我々がこんなことを話しているのを、どこかで聞いているのかも知れぬ。
    また寒中に五十銭やったら、乳まで水に入って鯉を捕ってくれた。
    ついでに料理もしてくれたが下手だったという話も聞いた。
    しからば冬でもこの辺にはいることがあるのである。

     不思議なことには国勢調査の時に、気を附けてみたがどの部落にも、ポンは一世帯もいなかったといった人がある。
    自分はこれを怪しまなかったが興味は感じた。
    日本の幽冥道(ゆうめいどう)の思想と同じく、ポンはこの国土の第二の住民である。
    大団体とは共通せぬ利害を持つ者である。
    計算の外である。

    物静かな京都人が全部踊ったような祭の日にも、私は若王子(にゃくおうじ)山の松林に、細い煙を挙げている者のあるのを 見た。
    すなわち斉明天皇紀にある朝倉山の鬼であって、少しばかりはどうも仕方がない。
    我々は久しい間これを大目に見て来たのである。
    事によると彼等の中の小賢しい奴は、道の辻々の赤い立派な掲示を見て、仲間の者にこういったかも知れぬ。
    注意せよ十月一日を、この調査に洩れなかったらボンの恥ですと。


    (三州作手村) (『東京朝日」20-11-10 (連載「秋風帖」) /『柳田國男全集・2』ちくま文庫、89・9)




  • 引用文献
    • 柳田国男 (1920) :「ポンの行方」, 東京朝日 (連載「秋風帖」), 1920.