Up サンカの終焉 作成: 2025-01-24
更新: 2025-01-24


      宮本常一 (1964)
    さきにものべたように狩人はただ野獣や鳥をとるだけでなく、ときには川の魚もとりつつ回帰的な移動をこころみている。
    そして移動を事とするために農耕技術におくれていた。
    そして食物も野生物を採取して、まかなうことが多かったのであるが、たぶんおなじ狩猟民であったと思われるもののうち、主として川魚をとって生計の資にあてたり、野生物を加工して生活用具をつくる仲間が、狩猟を主とする者からわかれていったと見られる。
    今日サンカとよばれているものである。
    サンカは山家・山窩とも書いている。
    サンカに対して学問的に早く目をつけたのは柳田国男先生であった。
    明治44年から45年へかけて「人類学雑誌」へ「イタカ及びサンカ」を発表している。

     しかしサンカについて学者こそ注意の目は向けなかったとしても、民間では早くから問題にしていたのである。
    サンカのいるところ必ず犯罪がそこにあったからである。
    しかもサンカの群はきわめて多かった

    奈良・大阪地方ではこの仲間をサンカともヒニンともよんでいた。
    そしてその数を正しく知ることはできなかったが、おびただしいものであったと見られる。
    私が大正の終り大阪にいたころにはまだいくつかの大集落を見かけた。
    大阪天王寺駅の西方、現在市民病院のたっているところはもとミカン山といって草地の台上であった。
    その台上に莚でかこった小屋の大集落があった。
    それがサンカの部落であった。
    おなじころ、大阪市の新淀川にかかっている長柄橋の下の川原にも大集落があったし、淀川にかかった都島橋の下にも莚張りの大きな部落があった。
    これを目して乞食の村だといっている者もあったが、「あれはサンカだ」と教えてくれた人があった。

    私はこの集落につよい興味をおぼえてはいりこんでいろいろ話を聞いてみたいと思って、都島橋の下ではこの仲間といっしょに水泳をしたり、夕暮の一ときを話してみたりしたことはあるが、ついに親しく交わることはなかった。
    ただ、昼間はうすぎたなくしている娘たちが、夕方川で水浴して髪をくしけずり、浴衣を着ると見ちがえるように美しくなって、それが橋の上に上って欄干に寄りかかって夕涼みをしているのを見ると、橋下の莚小屋の住民とは思えなかった。
    その橋下の仲間は長柄橋の下の仲間やミカン山の仲間ともたえず交渉を持っているとのことであった。

     その後、和泉地方に住むようになってからも、村々を歩いていると、川の橋の下や山間の谷間に小屋掛けして生活している仲間をよく見かけ、聞いてみるとやはりサンカであった。
    当時、私にはサンカと乞食の区別もつきかねていたが、清水精一氏の「大地に生きる」を読んで、これらのサンカについてくわしく知ることができた。
    氏はサンカのなかで久しいあいだ生活し、この人びとの生活向上のためにつとめたのである。

     昭和にはいってからミカン山や長柄橋の下のサンカ部落は大阪府警察部の手入れによって解散し、一時兵庫県との境の神崎大橋の下へ移ったと聞いたが、おなじころ和泉地方のサンカ部落もほとんど消えている。
    警察の強制立退命令にあったものであろう。
    それらの仲間がどこへ行ったかを知らぬ。
    ところが昭和10年ごろの夏、大和川の川原へ突然20ばかりのテントが張られたことがあって、何だろうと思ってやっていってテントの住民たちと話したことがあったが、土用ウナギをとりにきている者で、大和・紀伊・大阪の川をずっとまわり歩いて日ごろはウナギにかぎらず川魚をとっているとのことで、サンカの群だったのである。
    すっかり近代化していてもうあまりうすぎたない仕度はしておらず、男はシャツに半ズボンをはき、女はアッパツパを着ていた。

     サンカの仲間も生活向上につれて次第に一般民衆の間にとけこんでいったのであろうが、こうして川のほとりをわたり歩いている者の生活も昭和初年に比していちじるしく高くなっていた。
    しかし山間にある者の生活はなお低かった。

    昭和14年から18年にかけて、私は全国にわたって歩きまわったが、山中でときおりこの仲間に会うことがあった。
    大和吉野の山中や四国の仁淀川・吉野川の流域では幾組もの仲間に会うた。
    川原に本当に粗末な小屋掛けをしてくらしており、いずれも川魚をとっていたが、それは秋田マタギが秋田の山中で川魚をとっているさまと何ら変りはなかった。

    川魚をとることを主業とする者は早くから平地にも住んだであろうが、狩猟を主としていた者が、山中から下って川のほとりに住むようになった者もまたすくなくなかったと思われる。
    秋田角館で会うたマタギも、もとは檜木内の奥を重要な稼ぎ場としていたが、後には角館に近い玉川のほとりで、鵜をつかって川魚をとることを主にするようになっている。
    この方が山中で獣を追うよりは能率も上ったのである。

     もともと山地を重要な稼ぎ場としたから、この仲間は奥深い山のある地方に多く居住した。
    九州の脊梁山脈、四国の脊梁山脈、播磨西部山中、吉野・熊野山地、白山を中心にした美濃・越前の山中、関東の秩父山塊などにはとくに多かったようである。

     それが狩人仲間から分離していったについてはこの仲間には政治的な保護の加えられることのなかったためと思われる。
    狩をする者のうち、その上層部の少数の者は猟銃など与えられて領主の保護もうけ、長く狩猟をつづけることもできた。
    そしてまたそれらの人びとは百姓の農作物を野獣の被害から守る者として百姓仲間から尊敬の目で見られていたが、それは大ぜいの狩猟民のうちのほんの少数にすぎず、大半の狩猟民はむしろ零落の一路をたどっていたものと見られる。

     中には農耕に転じていった者もあったが、その古くから持ち伝えた技能は、農にしたがうようになってもなお消えず、川魚をとったり、竹細工や莚細工で生活用品をつくりつつ売り歩いたりするために、純粋の百姓村から特殊な目で見られてきた者が多かった。
    定住するにもまた条件があった。
    農耕に適する地が与えられることはすくなかった。
    そういうところは一般の百姓がもう大方ひらいていた。

     私は昭和37(1962)年10月、九州阿蘇山の南麓矢部の町でサンカについて土地の郷土史家井上清一氏から興味深い話を聞いた。
    この話は今後相当の時間をかけて実地に調査し、もっと事実をたしかめなければならないのであるが、一応ここにのべることにする。

     九州山脈の中でサンカの多いのは宮崎県北部の山中であるという。
    米良・椎葉郷から北につづく部分である。
    そのうち諸塚の七ツ山付近の人びとは古くから回帰性移動をおこなっていたという。
    この地方は山の深いところで、山と山との間には峡谷が食い込んでおり、山の中腹から上にやや平らなところがあって、そこに5戸・10戸と人びとは家をたてて住んでいる。
    この地方では道の多くは尾根の上を通っている。
    車の通う道ができるようになって道は谷に下ったのだが、そのため山腹の村はかえって急坂を上ったり下ったりしなければならなくなった。
    もとは山の尾根なり山腹を横に行く道があって、そこを通っていたから、山中に住んでも、それほどけわしい坂道を通らなくてもすんだという。

     この山中はいま歩いてみても、そこに住んでいるだけでは、とうてい生活のたちそうなところではない。
    傾斜面の雑木を伐って焼いて作物をつくっても、それで食うに足りるだけのものを得ることはむずかしいであろう。
    イノシシの多いところなので、それをとって皮も売るというが、それすら狩の獲物でどれほどの生活物資を手に入れることができるであろうか。
    所詮は山刀(なた)一つをたよりに竹を割り、蔓草を切って編んで、竹籠や箕や(ふるい)をつくって売るのが比較的有利であった。

     いつこの山中を出て里の村々をどう歩いてくるかわからないが、毎年5月20日に矢部の町の北部を商から東へ通りすぎる一組がある。
    この地方の人の伝承によると、それはすでに何百年もつづいているものではないかという。
    山中に小屋をつくってそこに起居し、村々の農家を歩いて箕・籠を売り、またいただくものを修理する。
    しかし、その修理を民家の軒下でおこなうことは絶対にない。
    彼らの仮小屋に持ってかえるか、または人里はなれた大きな木の下、神社の境内などで修理する。


    きれ物といってはまったく山刀一本を使用して仕事をするのだが、神技に近いといっていい。

    矢部の付近には一週間近くいて、仕事を終えると5月27日ごろ、東方へ移動していく。
    その行動は毎年ほとんど狂いなくつづけられている。
    ただ彼らの仮小屋は毎年場所がすこしずつちがう。
    したがって、その仮小屋を彼らがやってきたときにつきとめることはできない。
    が、立ち去ったあと山中を歩いていると、竃のあとを発見するのでそれとわかる。
    竃は石できずいである。
    その竃の大きさによって群の大きさを推定することができる。

     この仲間の通った道すじにはクマザサの葉がうず高くすてられていることがある。
    茎をとったのである。
    茎は籠の材料にする。
    また箕などにする木を伐ったあとも見られる。

     村の百姓たちはサンカの仲間の生活を知ろうともしなければ、その生活に立ち入ろうともしないが、それが日向の七ツ山地方から来た者であることは彼ら自身の言葉から知ることができる。
    日向の七ツ山というところは肥後馬見原の東の赤谷というところから飯干峠をこえて南にはいったところであり、馬見原の町は阿蘇の南側の裾野にあって地形もゆるやかで、古くから肥後と日向をつなぐ通路にあたっており、山の港として江戸時代には栄えていた。
    そして商店も多かったのであるが、その馬見原の町の商家へ七ツ山から下女や下男に稼ぎに来る者が昔から多かった。
    それがサンカであるか否かは別として、とにかくこの山中の人は郷里以外で稼いでこなければ生活はたたなかったのである。

     そういうところに人の住んだのはやはり住む理由があったに違いなく、もとはイノシシ・シカなどの獲物も多かったのであろうが、別にはまた戦いに敗れた者が身をかくすのにもよい場所であった。
    肥後は阿蘇山信仰を中心にして阿蘇という家が大きな勢力を持ち、それが鎌倉時代以降武力化して南北朝のころから武力抗争にまきこまれ、この山中は戦乱の巷になることが多かったが、そのたびに敗れた者がこの山中に身をかくしたようである。
    そうした落人たちと、永年にわたる回帰性移動をおこなっているサンカの群との関係についてはたしかめていない。

     ただ七ツ山のサンカの仲間が,馬見原の北、五箇瀬川の上流の蘇陽峡の谷底に,今から百年あまり前から,定住をはじめる。
    この峡谷は両側がきりたてたような岩の崖になっている。
    崖を上ると上は阿蘇の裾野の平地になっていて、そこには多くの村が散在している。
    そして平地の上に立って眺めると、峡谷がこの裾野を西南から東北に横切って深く食い込んでいることすらわからないほどである。
    その峡谷の底にわずかばかりの平地があり、そこを田にひらき、また田の上の急傾斜の土のあるところを畑にして点々として住居が見られる。
    そしてこの峡谷の中に住みついている家の数は300戸近いものではないかといわれる。
    この峡谷を流れる五箇瀬川にはもとウナギが多く、七ツ山の仲間が来てそれをとっていた。
    この地方の人の記憶ではこの峡谷の上の台地に人が住んだとき以来ではないかというほど古い歴史を持っている。

     台地の上に住む者は,峡谷は無縁というよりは交通を阻害して彼らに大きな不利をもたらしている自然で、この谷間の利用を考えてみることもなく、まったく捨て去られた世界であったが、その故にサンカにとっては獲物の豊富なめぐまれた天地であった。
    そこで百年あまり前から台上の村人の許可を得て、この谷底に小屋掛けをして定住するようになった。
    一日に四時間ほどしか日のあたらぬ谷間だが、わずかでも水田をひらいてつくることができるということで、七ツ山に住むよりは有利であった。
    それに隔絶せられた世界で、他人にのぞき見せられることもなかった。
    そこで少々の田をつくり、畑をたがやしてトウモロコシ・ダイズをつくり、川魚をとり、また余暇には箕や籠をつくって、それを馬見原や赤谷・三井田(高千穂)などへ持っていって売った。
    七ツ山よりはくらしもらくだというので、さきに住みついた者が仲間をよんで、その谷間にはだんだん家がふえて、三里ほどの峡谷に平地らしいところがあれば必ず人家を見るようになったが、谷間の村と台上の村との間に高い岩壁があることによって、二つの世界に摩擦のおこることはなかった。
    ただ谷間の方では川魚がめっきりすくなくなってきた。
    と同時に竹細工・藁細工品の需要もへってきた。
    そのことからそうした細工仕事をする者がめっきりへってきた。

     この谷間に住みついた者のほとんどは回帰性移動をやめていた。
    回帰性移動をしなくとも生活ができたからである。
    しかし今はまたその生活が苦しくなりつつある。
    そこで、若い者の多くは出稼ぎに行き、谷間にのこる者は台上に土地を借りてそこをひらいで農耕にはげむ者もふえてきた。
    おそらく七ツ山の親村よりも今はこの谷間の枝村の方がはるかに大きくなっていると思われるが、枝村の方は親村とはかなり性格のちがった村になって成長してきた。
    しかし台上の村に比すればその生活レベルはかなり低い。

     サンカの仲間が回帰性移動の途中において群からわかれて村のはずれなどに一戸・二戸と定住することはすくなくなかったようである。
    何が動機でそうなったかは明らかでないが、この山中にはサンカの後と思われる家をすくなからず見かけると井上氏はいう。
    サンカの家では主屋と竃屋を別にする。
    人の起居するところでは炊事はしないという。
    かりに竃を一つにしていても住居と竃屋の間には仕切りの壁があって、主屋と竃屋の入口は別々になっているという。
    そういえば私のたずねていった家もそうであったが、一般の民家は主屋も竃屋も一つになっている。

     この地方ではサンカだからとて一般農民との間にそれほどの差はっけない。
    それにもかかわらず、それがサンカの子孫であることをこうしたところに根跡としてのこしているという。
    が,いずれにしても山中に住んでいた農耕以外を主業とする民の多くは、これとほぼおなじような経路をたどりつつ農耕民の間に吸収されていったもののようであるが、近畿から中国・四国にかけては、そのような集落が特殊視せられて今日にいたっているものがすくなくない。




  • 引用文献
    • 宮本常一 (1964) :「サンカの終焉」
        in『山に生きる人びと』(日本民衆史 2), 未來社, 1964
        • 河出書房新社 (河出文庫), 2011