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清水 (1934), p.238
乞食は平素は決して病まないが、その代り病めば必ず死ぬといってもよい。
平素の生活様式が抵抗力を自然強めるように出来ている故でもあろう。
腐ったものを食っても中毒しないほど胃腸は抵抗力が出来ている。
乞食の子供は裸体で風邪をひかぬというが、たしかにその通りである。
かえって都会の富豪の子供は着物を着過ぎて感冒にやられているのである。
何としても世の中は度肉だ。
こうした状態であるだけに医療とか治療とかは考えないのである。
また病気したからとて医師を迎えるという訳にはむろん行かない。
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同上, p.238
さりながら乞食とても病気はする、発熱もする。
そうした時は草根、木皮などで治療するのである。
発熱の時は蚯蚓を煎じて飲む。
また咳の出たときは蜜柑の皮など柑橘類の皮を煎じて飲むのである。
こうした治療法は代々に伝わり来ているのでそうした知識は豊富なものである。
特に面白く感ずるのは、その草根木皮が春夏秋冬、皆その時その時のものが、その季節に起りやすい病気の治療剤になっていることなのである。
自然の配在というものをしみじみ味わわせられる。
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同上, p.238
ただ天刑病 [ハンセン病] 患者だけはいかんとも致し方なく、そのままにしているものの如くであるが、自然人的生活者だけにその病気に対しても、それが自然の療法らしく、かえって保療所などに収容されているものよりも長命者が多いようである。
現今この種の患者は伝染病として特殊の扱いを受けているので国立の保養所があるのであるが、時々逃げて来たり、また充分の手配が行き届かぬためにか、相当の患者が乞食の中にはいるのであって遺憾なことに思われる。
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同上, pp.238, 239
病むということは人間生存中の大恐怖事の一つである。
特に貧民にあってはなおさらである。‥‥‥
ところが乞食は病めば死ぬと観念しているのであって、病気に対する焦燥的気分がすこぶる少ない。
一種の悟りである。
焦燥の気分が少ないから癒るべきものはかえって早いが、概して平生が平生であるから、病めば大概死ぬる。‥‥‥
乞食が病気した時などは存外平気である。
一切の治療は自然のままに托している。
産婦なども出産の際は経験家が助産婦の代用をする訳であるが、誰も居ない時などは自分でそれを処理して平気なものである。
子供が怪我などした時は、母親が唾液で治療をするのである。
ちょうど猫や犬が傷口を嘗めているような形で面白いものであるが、すこぶる原始的である。‥‥‥‥
少しく大きくなった子供や大人は土療法で治す。
土をその傷口にすりつけておくのである。‥‥‥
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同上, p.239
‥‥‥現代人は医者に頼り過ぎているように思われる。
しかも貧乏人はその医者には経済的に苦しめられて閉口しているのである。
私は人間は自分自身で病を治すようにまでならねばならぬと思う。
私はこの頃ほとんどそうしているのであるが、それにはまず先決問題として病めば死ぬの覚悟が大切だ。
生死を自然に托して悠々と病んでいる乞食の人達は尊くさえ感じられる。
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Cf. 良寛:
災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがるる妙法にて候。
引用文献
清水精一 (1934) :『大地に生きる』
谷川健一[編]『日本民俗文化資料集成・1 サンカとマタギ』, 1989, pp.155-292.
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