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武田邦彦 (2007), pp.111-114
‥‥ 京都議定書の、日本の三つの失敗 ‥‥
一つは、京都議定書の基準年とされた1990年には、すでに日本の工業界はエネルギー原単位の削減をしており、活動量に対しての二酸化炭素排出量は少なかった。
にもかかわらずヨーロッパの主張に同調し、先進国が横並びに削減目標を置かされたことだ。
絞りきった雑巾をさらに絞るように、さらに排出量を減らすのは難しい。
結果的に日本は6%の削減目標を守れそうになく、近い将来、二酸化炭素排出量の超過分として「排出権」をロシアなどから購入し、二兆円を超える損害を被ろうとしている。
第二の失敗は「地球温暖化は、現在の科学技術では短期的な解決が難しい」という欧米の判断に惑わされたことだ。
ゴアの指摘を待つまでもなく、二酸化炭素の60%を排出しているアメリカとヨーロッパが、日本と同じ技術レベルになることで、生活レベル (国民一人あたりのGDP) を保ったまま 33%の削減ができるのだから、すでに京都会議の時に技術的解決策は存在したのだ。
第三の失敗は「地球が温暖化すると、日本も被害を受ける」と錯覚していたことだ。
その頃の日本人は、洪水のように溢れる「地球温暖化=大規模災害」という報道に幻惑されていた。
もっとも報道が多かった1996年には、一新聞社だけで温暖化の記事は年間2000回を超えた。
一日五回以上も読まされれば錯覚するのも領ける。
‥‥
環境問題とは、当然ながら、国際政治におけるせめぎ合いの結果でもある。
リサイクルに関していえば、ドイツがリターナブル・ピンを薦めるのは「環境問題に目覚めた」わけではなく、非関税障壁を設けて近隣諸国からの飲料の輸入を止める方法の一つであり、デンマークがアルミ缶のビールを禁止するのはドイツからの輸入を阻止するのが目的だ。
日本人から見るとみんな「環境を大切にする良い子」に見えるが、他人が納得する正論を展開しつつ実は得しようとするのが国際政治だ。
リサイクルでも「良い子になりたい症候群」で日本は多くの損害を被っている。
1997年の京都会議も同様だ。
政府や専門家は「日本も二酸化炭素の削減に協力しなければならない。地球温暖化は怖い」というキャンペーンを打った。
かくして日本はヨーロッパの戦略にまんまと乗せられて京都議定書を締結・批准し、今、二兆円とも言われる「排出権」経費を外国に払おうとしている。
無論われわれの税金からだ。
こんな苦境に陥っているのは、日本だけである。
なぜなら京都議定書は97年の締結であるにもかかわらず、二酸化炭素削減の基準年を90年に遡って設定することで、ヨーロッパ各国は削減目標を達成できたからだ。
イギリスなど多くの国は90年代に発電所の転換を行ない、東西合併直後のドイツや、ロシアには、「排出権」を他国に売る余裕すらあったのだ。
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この論は,つぎの2つの間違いをしている:
- 「国民が税金で尻拭い」の論法を使っている
- 「独り馬鹿を見ることは損」の論法を使っている
「国民が税金で尻拭い」が間違いであることは,「無駄遣い論は, ダメ」で論じたので,繰り返さない。
以下は,「独り馬鹿を見ることは損」の間違いについて。
昔,IT川柳に,「改善できない点は特色とせよ」というのがあった。
至言である。
「独り馬鹿を見る」は,日本人の「改善できない点」であり,これは「特色」とするものである。
そしてここで肝心なことは,「独り馬鹿を見る」は損ではないということである。
世の中には,技術コンテストが色々ある。
いまTV番組になっているものだと,「魔改造」「鳥人間」「高専ロボコン」などがある。
これはみな,「絞りきった雑巾をさらに絞る」コンテストである。
技術や知恵は,みなこの「絞りきった雑巾をさらに絞る」から出てくる。
「CO2 排出削減」なんぞはアホな課題だが,これは「魔改造」のアホな課題と同じであって,アホであることこそが真骨頂なのである。
「絞りきった雑巾をさらに絞る」者は,これをしない者より得るものが多い。
「立派なことをしている」と思い違いさえしなければ,よいのである。
引用文献
- 武田邦彦 (2007) :「大失敗の環境政策」
所収 : 『暴走する「地球温暖化」論』, 文藝春秋, 2007. pp.99-116
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