Up | 被虐的独善 | 作成: 2007-10-03 更新: 2007-10-03 |
被虐的独善とは,つぎの世界観によって,世界を固定化するものである:
正しいが,権力に虐げられる自分(たち) 特に,被虐的独善は,「人が人を支配する」の世界観で思考停止する。 (要点:「制度に人が支配される」ではなくて「人が人を支配する」) 被虐的独善は,「反権力イデオロギー」の形をとる。 自らを<正しいが,権力に虐げられる者>に位置づけるこの独善は,この形で現状を受け入れる。 このようなイデオロギーが,制度に対する異論の回収をやり出すことがある (多様性を「正しい -対-正しくない」に導こうとする)。 このとき,制度は固定化され,体制は安定したものになる。
よって,制度の硬直化 (「制度に人が支配される」) の問題の考察の中には,「被虐的独善」についての考察も含まれてくる。 そこで,「被虐的独善」が何であるかを,ここで押さえることにする。 被虐的独善は,「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立てる。 一般に,「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立てる体質は,何に由来するか? それは,「自分は理不尽に否定されている」という意識・感情の鬱積である。 これがコンプレックスになって,何かにつけて「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立てるようになる。 自分が他から否定されることは,普通のことである。 しかし,つぎの違いが出てくる:
否定によってひどく傷つくか,否定を穏やかに受けとめられるか。 そして,「ひどく傷つく」の場合,「正しい -対- 正しくない」の対立図式を立てる体質が形成される。 ──これに対し「穏やかに受けとめられる」の場合は,寛容 (「正しい」を相対的にとらえる) ないし科学指向 (「正しい」を位置づけたいと思う) の体質が形成される。 「正しい -対- 正しくない」の対立図式を退けるものは,科学である。 では,科学は「正しい・正しくない」をどのように扱うか? 政策で「国論が2分」ということがある。 これは,「一方が正しく,他方が正しくない」ということだろうか? 「政策が通っても通らなくても大差ない」ということだろうか? そうではなくて,これは「政策の功罪が相半ば」を意味している。 「功罪相半ば」が「国論の2分」という形に表れるわけだ。 このように,「正しさ」をめぐる対立は,科学的立場ではつぎのように解釈される:
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