Up | はじめに | 作成: 2013-12-13 更新: 2013-12-13 |
この不祥事に,大学は「指導」と称する処分で応じる。 なぜ,「指導」か? 「教育」とか「寛容」とかとは,関係ない。 そもそも「処罰」が立たないからである。 「処罰」は,「法」に照らして行われる。 大学の処罰は,国の法に照らすか,自分がつくった法に照らすかである。 そして大学は,学生に対しては,試験での不正行為といったごく一部のことがらに対し「法」を用意しているのみである。 処罰は照らす法がなければ行われないものであるから,ほとんどの学生不祥事は処罰の俎上にはのぼらないわけである。 ひとは,法に守られている。 しかし,学生はこのことを知らない。 教員もよく認識していない。 そこで,「指導」は,「指導」側の「脅迫」と学生の「卑屈」の舞台になる。 時間が経つうち,学生にも少し冷静が戻る。 そのとき,学生は「自分は何であんなにも卑屈になり,そしてこんなにも譲歩してしまったのか?」となる。 「おかしいぞ」となるわけである。 この学生が,「指導」側の理不尽を訴えたらどうなるか? 負けるのは,「指導」側である。 なぜなら,その「指導」は「無法」だからである。 そこで,「指導」側は,自分の失敗の糊塗を始める。 これの先は,「指導」側に対する学生の不信であり,離反である。 この不幸のもとは,学生と教員両方の「処罰」に対する無知である。 教員に対し「無知」の言い方をするのはいかがということであれば,「思考停止」と言っておこう。 この不幸は,まだ他人事であるうちは看過もできる。 しかし,いまの「コンプライアンス」「リスク管理」の時代には,ひとはかんたんにこの不幸にはまってしまう。 そこで,「指導」と称する処分が何物であるのかを,本論考を以て改めて論考してみることにした。 ただし,本論考をつくるにおいては,学生に対する啓発を旨とした。 なぜなら,学生は,きまって,「指導」側を「権力」に見立てるからである。 「言われた通りにしないとひどい処遇がまっている」の思いになる者だからである。 要するに,本論考はつぎのことを言うためにつくるものである:
あなたは,法で守られている。 あなたが法でどのように守られているかを,正しく認識せよ。」 |