Up | 木の見分けとは?──「見分け」の認識論 | 作成: 2012-08-06 更新: 2012-08-06 |
欧米人と東洋人はわれわれの見分けるものになるが,その見分けは<見るからに違う>を用いている。 ここで,学術のスタンスから,「見分け」の規準の作成が進められたとする。 われわれは,<規準に照らす>を用いて,欧米人と東洋人の見分けができるだろうか? 規準とは,「欧米人は毛深い」「東洋人は皮膚が黄色い」の類である。 これに頼るとき,欧米人・東洋人の見分けはできないものになる。 個はどれも「毛深くて皮膚が黄色い」「毛が少なく皮膚が白い」みたいになるからである。 木の見分けも,これと同じである。 人の生活の中で,木々の間に<見るからに違う>が現れる。 そして<見るからに違う>に準じて,人は木に名前をつけてきた。 しかし,後からやってくる者は,木の名前からスタートする。 木の名前を導きにして,木を見分けようとする。 そしてこのとき,見分けの規準を求めるふうになる。 「当年枝に毛が密生」「葉が広卵形」の類である。 そしてこれに頼るとき,木は見分けられないものになる。 木の見分けは,<見るからに違う>を用いる。 <見るからに違う>を用いることができるためには,<見るからに違う>が見えるのでなければならない。 <見るからに違う>が見えるとは,見えるカラダがつくられているということである。 したがって,<見るからに違う>が見えるカラダを鍛錬してつくることだけが,木を見分けられるようになる方法である。 「鍛錬」とは何をすることか? 「木に親しむ」をすることである。 以前,"バッコヤナギ" と "エゾノバッコヤナギ", "キヌヤナギ" と "エゾノキヌヤナギ" の見分けがあった。 いまは,これは無くされている。 この見分けが存在していたのは,それぞれ<見るからに違う>があったためである。 しかし,規準を使い出すと,見分けができなくなる。 そこで,「規準が立たないのだから,"バッコヤナギ" と "エゾノバッコヤナギ", "キヌヤナギ" と "エゾノキヌヤナギ" の区別は意味がない」というふうになる。 そして,この区別をやめるに至る。 これは,本末転倒である。 しかし,「規準」をひとが求め出すときは,必ずこの種の本末転倒が起こる。 「規準」とは,そういうものなのである。 そして,専ら規準に頼るようになることで,"バッコヤナギ" と "エゾノバッコヤナギ", "キヌヤナギ" と "エゾノキヌヤナギ" の見分けの技が失われる。 名を無くすとは,それが見えなくなるということである。 (「木の名をもつことの意味」) |