Up | 実体論/表象主義の受容 | 作成: 2014-09-09 更新: 2014-09-21 |
存在論としては同じである。 違いは,スタンスである。 「オートポイエーシス」を語るスタンスは,「科学者」である。 「オートポイエーシス」の論は,科学の方法である「対象の構造化」に向かうことになる。 これに対し,「空」を語るスタンスは,「尊士」である。 「空」(「有るでもなく無いでもなく」) の存在論を,「‥‥ではない」の表現を連ねる形で示す。 「‥‥である」を言うことはしない。 ──「‥‥である」を言うことは「対象の構造化」に論を進めることであるが,これをしないというわけである。 このことを,「分別智」と「無分別智」(「無記」「不立文字」) の別に対し自分は「無分別智」である,と説明する。 ──「対象の構造化」は「分別智」であり,もとよりすることではない,というわけである。 「尊士」は,「無謬の者」である。 「‥‥である」を言うことは,間違いを言うことである。 「‥‥でない」を言うこと,そして言わないことが,間違いを言わないことである。 そこで,「‥‥でない」を言うこと,そして言わないこと (「無分別智」) が,「尊士」の方法になる。 ナーガールジュナの『中論』の文体は,典型的にこれである。 『中論』は,ウィトゲンシュタインの『哲学探求』を想起させる。 『哲学探求』は,趣旨が実体論批判であり,『中論』と同じである。 そしてその語り口が,『中論』とよく似ている。 さらに,「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』) を「言語ゲーム」のことばに乗せる格好で,やはり「無分別」を以て論を閉じる。 「尊士」の方法は,探求・発見を自ら閉じるものである。 己は小さく,世界は広い。 「尊士」を役回りにしていない者──間違いをやってナンボの者──は,「分別」をとる。 「分別」を構えとして,「である」の命題をつくる。 存在の論述は,「マクロ・ミクロ」二重性になる。 このとき,マクロ記述とミクロ記述は,言語レベルの違いを立てる。 即ち,ミクロ記述は,意図的に(確信犯的に) 実体論を行う。 マクロ記述は,現象論──形(かたち)論──を行う。 「マクロ・ミクロ」は,「水の粒子(ミクロ)の相互作用の現象である雲(マクロ)」の対象把捉法である。 複雑系科学は,「マクロ(系)・ミクロ(個)」の枠で「個の相互作用)」を科学していることになる。 ただし,複雑系科学は,人のリアルな系に近づくには,ひどく遅々たる歩みである。 「オートポイエーシス」は,先回りして,「個が相互作用する系」の理念形を示しているものと見なせる。 これらの「分別」は,「空」(「有るでもなく無いでもなく」) の存在論から外れるものではない。 マクロに対しミクロを実体的に立てることになるが,その実体性は「仮設」である。 実際,《ミクロはつぎには「マクロ・ミクロ」のマクロに替わる》を承知しているわけである。 そして「仮設」の方法論は,『中論』の「中」の意味であるところの「中道」の要素である。 ちなみに,わたしは実体論批判・合理主義批判・表象主義批判をつくるタイプの者であるが,「マクロ・ミクロ」を方法にするとき,この批判は無用のものになる。 「ミクロ」において,「仮設」ということで,意図的 (確信犯的) に実体論・合理主義・表象主義をやることになるからである。 |