Up | 島崎藤村 『夜明け前』 | 作成: 2018-09-19 更新: 2018-09-19 |
読み始めると,舞台設定の精密さに先ず圧倒される。 そこで逆に,眉に唾をつけたくなる。 この小説は長編で読むのに時間をとられるので,読み続けるかどうかは書き手を信用するかどうかにかかってくる。 『夜明け前』は,島崎藤村の父がモデルである。 舞台設定も,事実をそのまま写したものである。 これを知って,舞台設定の精密さに納得でき,信用して読んでもよさそうだ,となる。 実際,読後に「よく書き上げたものだ!」の感慨のもたれる作品である。 タイトルの「夜明け前」は,ミスリーディングである。 「夜明け前」は,その時代 (幕末維新) に対する島崎藤村の捉えではない。 主人公は,「いまは夜が明けようとしている時だ」と思いたい者である。 この願望をタイトルにしている。 『夜明け前』は,『「夜明け前」』である。 実際,主人公の「いまは夜が明けようとしている時だ」と思いたい気持ちは,ことごとく裏切られていく。 実際,幕末維新は,「夜明け」に比すものではなく,「山火事」に比すものである。 ここで山火事の意味は,山の新陳代謝である。 生態学では,生態系に対する山火事や川の氾濫の類の機能・意義を,「攪乱 disturbance」と謂う。 生態系は進化するものであり,攪乱は進化の契機である。 「新陳代謝」と言ったが,これはゼロに帰ってのリセットとは違う。 実際,出発点になる焼けた山は,ゼロではないわけだ。 生態系にリセットというものは無い。 「生態系にリセットというものは無い」──この認識は重要である。 『夜明け前』に引き寄せて言えば,「復古」など考えるのは大きな勘違いということである。 古学は,実践論に進み,この勘違いをやる。そして「国学」に変質する。 主人公は,平田門人であり,「復古」イデオロギーに傾倒する者である。 主人公は,幕末維新で進行していることは古道の謂う「 島崎藤村は,「古の心」として「自然・直び」を立てる者ではない。 一方,「自然・直び」が論考の方法論に汲まれているふうである。 実際『夜明け前』は,生態学の趣きを呈している。 ──<幻想>の生態学,<攪乱>の生態学。 |