「日本人」括りの虚妄を直接示すものとして,境界文化の存在を挙げた。
さらに「日本文化」括りになると,この括りの虚妄を示すものに,難民・窮民文化も加わってくる。
難民・窮民は,つねに発生する。
生きることは,生存競争だからである。
競争に負けた者,競争からドロップアウトした者は,難民・窮民になる。
難民・窮民は,生存競争に残った者とは違う場所に住み,違う生業を編み出す。
そこで自ずと独特な文化を現すことになる。
「難民・窮民」は,その特徴的タイプが時代によって変わってくる。
即ち,「古代」では,耕作定住生活圏の拡大によって生活の場を失う狩猟採集生活者が,特徴的なタイプになる。
そして,「中世」は世の動乱からの難民,「近世」は飢餓窮民・非差別難民,「現代」は「ホームレス」(参考:[坂口恭平 2008]) といったぐあいである。
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[宮本常一 1960], pp.160-163 (岩波文庫ワイド版)
その原始林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぽろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。
‥‥
老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。
‥‥
私の逢うた当時九十四になる老人の話では山を見まわってあるいていて、‥‥思いもそめぬ所に道のあることを発見すると申します。全く村人の気付かない往還 (道)のあるものだと申しておりました。そして「盗人の通る道もあるのだからカッタイ病の通る道もあるでしょう」と話していました。
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引用・参考文献
- 宮本常一 (1960) : 『忘れられた日本人』, 未來社, 1960.
- 坂口恭平 (2008):『TOKYO 0円ハウス 0円生活』大和書房, 2008
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