Up | 生態学 | 作成: 2018-09-22 更新: 2018-11-05 |
人/生物の幻想は,その人/生物の生態の中にある。 そして,物のような存在ではない。 実際,幻想学が或る幻想をとらえるとは,人/生物の生態の或る局面を幻想の存在に解釈するということである。 生態の捉えが,先ずある。 こうして幻想学は,生態学の上に築く格好になる。 「生態」とは,以下のように考えるものである。 ひとの<生きる>は,<生業う>である。 <生業う>は,《<生きる>を素直に引き受ける》である。 ──そうでない<生きる>は,虚構である。 商品経済体制では,<生業う>は<供給者を生業う>である。 このとき,需要というものがはじめからあるわけではない。 商品経済体制では,需要は喚起するものである。 特に,無くても済ませるものの需要を喚起しこれに供給するというのが,商品経済体制での<生業う>である。 <生業う>は,生存競争である。 実際,生物の<生きる>は,<ぎりぎり生きる>になる。 <ぎりぎり生きる>になるのは,生物の個体数は生きられるぎりぎりの個体数に落ち着くからである。
実際,窮民が無いとは,個体数が増える余裕があるということである。このとき,個体数は増える余裕が無くなるまで増える。その個体数は,窮民が多くてどうしようもないとなる個体数である。 生存競争は,系の均衡の範囲内で,なりふり構わぬものになる。 <無くても済ませるものの需要を喚起する>は,なりふり構わぬものになる。 即ち,「詐欺」になる。
「無菌」は,騙しである。 人は,無数の菌と共に生き,そしてこの共生関係によってによって生きられている。 こうして,「大人の世界は汚い」になる。 しかし「大人の世界は汚い」は,「生物の世界は汚い」と言っているのと同じである。 「大人の世界は汚い」に挫折した子どもは,つぎは大人を引き受けるのみである。 |