Up | 「形式」記述の方法論:要旨 | 作成: 2013-09-25 更新: 2013-10-01 |
本論考は,表象主義を退ける立場に立つ。 実際のところ,論述は表象主義に拠らねばつくれない (ことばとはそういうものである)。 東洋哲学/思想の「無記」, Wittgenstein の「語り得ぬものについては,沈黙しなければならない」は,論述のこのディレンマに対する境地の表現である。 本論考は,これらのことを承知しつつ,表象主義を退けることを「カラダ」の論述の要諦としなければならない。 これは,「非科学」をやるということである。 科学をやることは,表象主義をやることだからである。 数学教育学の中で「学校数学=形式陶冶」論を行おうとすることは,「学術」の中に「非科学」の場所を確保しようとすることである。 「形式」は,「外なる形式が届くカラダ」を自身に認め,また自身の経験をいろいろ想起して,論述するところとなる。 特に,「形式」は,これの存在を実証するというふうにはならない。 (2) 「記述困難/不能」の構造の捉え 「形式の記述」は,このことば通りのものとして実際に行うのは,困難/不能である。 しかし,「形式の記述」を空理空論にしないためには,「困難/不能」で終わってはならないものである。 そこで先ず,記述困難/不能の理由の押さえに向かう。 これは,記述困難/不能の構造を捉えるという内容になる。 記述困難/不能は,つぎの諸相がある: (3) 「形式」の記述手法 (3-1) 「傾向性」──カラダの機能的記述 カラダの記述は,物理的記述は無理である。 機能的記述に代えることになる。 ライルの「傾向性 (disiposition)」は,カラダの機能的記述である:
特に,「形式」の記述困難/不能は「傾向性」の記述困難/不能である。 「傾向性」は理論に留まる。 「if-then」の記述は,実際には成らない。 「if」「then」ともに,実際に記述の段になると,複雑系になり,ことばにのらない (3-2) アクロバティックなことばづかい 「肝心」の記述は,ふつうのことであるといっても,「表現」とか本質論とか境地・達観の記述とかで考えると,記述困難/不能を相手にしている。 そしてこの場合は,かなりアクロバティックなことばづかいにも進む。 ここでは,論点先取の趣で,「アナロジー/メタファ」「ネガ・ポジ」を取り上げる。 |