反表象主義の立場で「内なる形式」を立てることは,「形式」を<カラダのリアリティとして説明されるもの>にするということである。
このカラダ論は,無理である。
したがって,反表象主義で「内なる形式」を立てることは,この無理に思考停止することである。
この思考停止の内容は,《「無理」を「不可能」に替える》である。
即ち,カラダの不可知論を言う:
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《「形式」の実体的説明は<形式=カラダ>の説明であり,これは不可能》
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こうして,反表象主義で「内なる形式」を措定することは,つぎの立場に立つことである:
- 「形式」が実体的に存在する。
- 「形式」を記述することは,カラダのリアリティを記述することであり,不可能である。
- これは《「形式」が実体的に存在することを当て込む》《記述不可能に甘んじる》の格好であるが,この格好を自身に許す。
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しかし,「内なる形式」の措定は,「内なる形式」の記述である。
「内なる形式」の記述に進まねばならない。
ここで,反表象主義はつぎの理屈を立てる:
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「「内なる形式」を記述するとは,記述不能のものを記述するということである。
「記述不能のものを記述する」は,この中の二つの「記述」の意味が同じなら,論理矛楯である。
記述不能のものを記述するとは,別様の「記述」を用いるということである。
この記述を開発することが課題である。
ここはひとつ,人のむしろふつうの行為であるところの《記述不能のものを記述しようとする (語り得ぬものを語ろうとする)》に倣うとする。」
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