本論考は,学校数学の勉強の<ためになる>を,学校数学の勉強をした者に共通して現れるカラダの特性の論にする。
そしてこのカラダづくりを「形式陶冶」にすることで,「形式が自分に届くカラダ」の論にする。
こうして,学校数学の勉強の<ためになる>は,「自分に届く形式」の共通性として記述するものになる。
実際,「形式が自分に届くカラダ」は,「個の多様性」「個人差」「共通特性」として観察されるものである。
表象主義の「内なる形式」だと,「共通」は,ことばの含意関係を操るというやり方で,ことばになる。
そして,ことばになった「共通」は,「一般形式」の趣きになる。
「一般形式」は,実際から抜けて独り歩きする。
──「実際から抜ける」とは,「<場合依存>が抜ける」ということである。
例 : |
「論理に強い・論理的に考えようとする・論理的に解決する」の類が「共通」にされる。
そして,ことばになった「論理に強い・論理的に考えようとする・論理的に解決する」は,「一般形式」の趣きになる。
しかし,実際の「論理に強い・論理的に考えようとする・論理的に解決する」は,場合依存である。──「数学はいいが,日常的なことはとんとダメ」のような。
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