Up | 全体論考の中の,本論考の位置 | 作成: 2013-07-13 更新: 2013-10-10 |
全体論考は,「学校数学」の意味の論考である。 1.「学校数学は何のため?」 「学校数学」の意味の論考は,論考の趣意を外さないために,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代える。 ここで,「学校数学は何のため?」は,つぎがこれの言い換えになるものである:
対して,つぎの意味に受け取るものではない:
これは,一つの生態系として現前している。 生態系は,目的に拠って立つものでない。 学校数学は,これを所与とする者にとって,目的に拠って立つものでない。 ──このことを,『「学校数学=生態系」論』で論じた。 「学校数学は何のため?」すなわち「現前の学校数学からは,何が得られるか?」の答えは,多様なものになる。 この多様性の捉えを,『「学校数学は何のため?」の答えの構造』で行った。 多様性を<多様性の構造>から導くというのが,『「学校数学は何のため?」の答えの構造』の趣旨である。 2.「学校数学=形式陶冶」 現前は,「誰にどんな得」の多様性を現す。 しかし,根本は,「勉強する者すべてにどんな得」である。 そして,組織の論理が立てる「得」を一方に見つつ,この根本を見据えるとき,「学校数学は「形式陶冶」として立つのみ」となる。 ( ![]() こうして全体論考は,ここより,「学校数学=形式陶冶」の立論に進む。 学校数学の歴史に,「形式陶冶説批判」がある。 「形式陶冶説批判」の「形式陶冶」は,全体論考が立論しようとする「学校数学=形式陶冶」の「形式陶冶」ではない。 よって,「学校数学=形式陶冶」の立論は,全体論考の謂う「形式陶冶」の定義から始められる。 「形式陶冶説批判」の謂う「形式陶冶」は,「作用主陶冶」である。 ──「形式陶冶説批判」は,「形式陶冶」を「作用主陶冶」のことにした。 ( ![]()
また,学校教育が「○○することができる」の言い回しで出口論をつくることも,ふつうのことである。 そしてこの学校教育は,「○○する力の陶冶」を自身の意味にする。 「○○する力が○○する」は,「作用主が作用する」である。 「○○する力の陶冶」は,「作用主陶冶」である。 「形式陶冶説批判」は,「形式陶冶」を「作用主陶冶」に解釈し,そして「作用主陶冶」が形而上学であることと指摘することを以て,「形式陶冶」批判とした。 全体論考は,「作用主陶冶」を「形式陶冶」とは別物であるとし,「形式陶冶」の保持を立場にする。 そこで,全体論考は,ここから「形式」の論考に進む。 すなわち,「形式」とは何か?の論考に進む。 これが,本論考である。 3.「形式」とは? (本論考) 本論考は,つぎの2部構成になる:
第2部 「形式」の記述 (1) 「形式」の存在措定 本論考の「形式陶冶」は,「形式」が「外なる形式」である。 「形式陶冶」は,「外なる形式が自分に届くカラダづくり」の意味になる。 特に,「作用主陶冶」とは明確に区別される。 翻って,「形式」を「内なる形式」で考えることは,「形式陶冶」を「作用主陶冶」と同じにすることである。 実際,「内なる形式」は「作用主」と区別のつかないものになる。 西洋思想・哲学は,「内なるもの」を立てることが主流であり,「形式陶冶」の考えもこの流れの中にあった。 よって,「形式陶冶説批判」が「形式陶冶」を「作用主陶冶」のことにしてこれを批判したのも,あながち外れてはいないのである。 ただしここで本論考は,「作用主」を立てるのは表象主義であるとの捉えから,これとの対比として,反表象主義からの「内なる形式」を,可能的立場として立てることにする。 このとき,本論考は,反表象主義からの「外なる形式」の立論である。 この立論を,表象主義「作用主」と反表象主義「内なる形式」との対照を用いつつ行う。 こうして,本論考は「形式」のことばにつぎの3つの意味を立てる: (2) 「形式」の記述 本論考の「形式」の存在措定の方法は,「形式」をカラダの外なる存在にするというものである。 カラダを,外なる形式に対する共振器・受容器・反応器とする。 「形式陶冶」を,外なる形式との同調をするようになるカラダづくりであるとする。 「形式」の存在論には,「存在の様相」の論が続く。 これは,「形式」の記述論になる:
「形式」の記述はどのようなものになるか?》 これが,本論考の第2部「「形式」の記述」の内容である。 4.「形式陶冶」の2類型とこれの含蓄 全体論考は「形式」のことばに対し,つぎの2つの意味を対立させる:
さて,「形式陶冶」を立てることは,「学校数学を勉強する」と「形式を得る」の間の因果律を立てることである。 このことには,「学校数学」と「形式」の同定が,先決問題として含まれる。 しかし,「学校数学」を定めることは,「形式」を不明として保留にすることになる。 また,「形式」を定めることは,「学校数学」を不明として保留にすることになる。 ──実際,「学校数学」と「形式」の両方がともに立つとは,因果律がわかっているということである。 しかし,形式陶冶の形式陶冶たる所以は,この因果律がわからないことにある。 こうして,「学校数学=形式陶冶」の理論構築は,「学校数学=形式陶冶」の意味の2通りと,「学校数学」と「形式」のどちらを先決にするかの2通りの組み合わせとして,つぎの4通りになる:
現前の学校数学出口論は,「内-形」(「形式=作用主」の立場,かつ「形式」を先決) である。 「外-数」は,「学校数学」を数学に定める。 「形式」として,自分に届くようになる「外なる形式」を挙げる。 「数学 → 形式」の因果律は,不可知として棚上げにする。 「内-形」は,「形式」を「生きて働く力」に定める。 「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。 「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) は,棚上げにする。 「外-数」は,「形式」の「何でもあり」論に陥る/陥りやすい。 「内-形」は,「学校数学」の「何でもあり」論に陥る/陥りやすい。 また,「内-形」による学校数学の主導は,「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) の棚上げが「学校現場への丸投げ」になるので,必然的に「学力低下」の社会問題を招く。 「外-数」と「内-形」の比較は,「学校数学」を捉える重要な視点を導くことになる。 この論考を,『学校数学は「形式陶冶」として立つのみ』で行う。 また,特に「外-数」の方については で,そして「内-形」の方については で,それぞれさらに論考を進める。 |