Up | 「形式」の存在措定:まとめ | 作成: 2013-07-14 更新: 2013-09-26 |
学校数学を「勉強する者すべてに得がある」ものとして立てようとするとき,その「得」は「数学の実用」とはできない。 「数学ではないもの」にしなければならない。 これに「形式」をあてる。 「学校数学=形式陶冶」となる。 では,このときの「形式」とは何か? そもそも,このような存在は立つのか? 本論考は,これの論考である。 「形式陶冶」の言い回しは,「形式」をカラダの内なるものとして想念していることになる。 これは,「概念形成」の言い回しが「概念」をカラダの内なるものとして想念していることになるのと,同じである。 「カラダの内なるもの」を立てるのは,西洋哲学の主流というものであって,それは表象主義ということになる。 本論考は,この「内なる形式」を退ける。 即ち,「外なる形式」を立てる。 「形式陶冶」を,「外なる形式が自分に届くカラダをつくる」の意味にする。 併せて,「外なる形式が自分に届くカラダをつくる」を「成長」の意味にする。 カラダは,外なる形式に対する同調・受容・反応器である。 このメカニズムを説明しようとして「内なる形式」を立てる必要はない。 「内なる形式」は,Wittgenstein の言う「空回りする歯車」であり,何も機能しない。 「外なる形式が自分に届くようになる」──これが,「成長」である。 「学校数学=形式陶冶」の意味は,「学校数学を勉強すると,外なる形式が自分に届くようになる」である。 しかし,学校数学と外なる形式は,別物ではないか? この「別物がつながる」は,説明できることなのか? ここで本論考は,「堆積と風化」「無用の用」を説明にする。 カラダづくりは,経験の「堆積と風化」,経験の「無用の用」である。 風化造形は,直接造形できない。 堆積と風化という迂遠を通して,造形になる。 「勉強」は「堆積」のプロセスであり,これの「風化」として現れてくるものが,「外なる形式が自分に届くカラダ」である。 個々の経験は,経験の累積の中で「用」の意味をたちまち失う。 しかしこれは,「無用の用」の相である。 「勉強」が「無用の用」になることの現れが,「外なる形式が自分に届くカラダ」である。 学校数学の勉強の得は,「外なる形式が自分に届くカラダ」である。 このカラダは直接得られない。 学校数学の勉強のような迂遠を通して得るのみである。 翻って,「学校数学は何のため?」の答えの要諦は,この「迂遠」の理解である。 この「迂遠」を理解することが,「学校数学は何のため?」の問いを収めることである。 |