Up | 攪乱と均衡回帰 | 作成: 2013-07-30 更新: 2014-02-18 |
止まることは,死ぬことである。 一方,心臓が規則正しく鼓動し止まらないことは,意識にのぼらない。 算数科は生き物である。 生き物であるとは,活性化しないと萎んでしまい,そして死んでしまうということである。 算数科があるとは,<算数科を活性化し続けているもの>があるということ。 <算数科を活性化し続けているもの>は,「算数科を活性化し続けているもの」というふうには意識にのぼらない。 しかし,これが無くなることは,算数科が萎んで無くなることである。 <算数科を活性化し続けているもの>は,いろいろある。 これらは,算数科を保てる形──現前の算数科がこの<保てる形>ということになる──をつくり,保守している。 学校数学は,自身を「攪乱と均衡回帰の繰り返しをメカニズムにして生きる系」として現す。 攪乱・均衡回帰を「新陳代謝」にして,生きる。 一般に,系は,自身の安定の攪乱と復元を,運動する。 系が現前しているとは,生きているということであり,生きているとは,攪乱・復元を運動しているということである。 そこで,系は,攪乱を担うモジュールを要し,実際,内在するふうになっている。 学校数学を攪乱するものは,学校数学が自身の攪乱装置として自ら備えているものを含め,いろいろある。 しかしいちばんに挙げることになるのが,出口論である。 学校数学は,世の人材論・人材育成論に学校数学出口論で応じる。 この出口論が,学校数学の最も自然な攪乱になる。 例えば「新指導要領」には,学校教育の系を攪乱する形で学校教育界を「景気づける」という一面がある。 「公共事業」というわけである。 学校数学出口論には,つぎの「数学的○○」の流れがある:
学校数学出口論は学校数学の攪乱を機能にもつが,この場合の「数学的○○」の特徴は,数学教育学パラダイムとして学校数学を攪乱するということである。 |