Up | 要 約 | 作成: 2012-12-24 更新: 2013-01-15 |
学校数学は歴史が長い。 そこで,もし学校数学が進歩するものなら,この間ずいぶんと進歩していなければならないはずである。 事実はそうではない。 攪乱と均衡回帰の繰り返しが観察されるのみである。 学校数学は進歩するものではないということである。 学校数学は進歩しない。 そして,「学校数学は進歩しない」の中核が,「教員は進歩しない」である。 教員は,進歩しない。 一般に,後進は先人のレベルに到達できるかできないかである。 「後進」に「先人を超える」の含意はない。 これは,「超える」は尋常のことでないということである。 2. 学校数学はただ生きる 学校教育は進歩しない。 学校数学は,ただ生きる――生きるために生きる。 実際,学校数学には攪乱と均衡回帰の繰り返しが観察されるのみである。 攪乱と均衡回帰の繰り返しの止むとき,それは学校数学の終わるときである。 学校教育は「攪乱と均衡回帰の繰り返しをメカニズムにして生きる系」というわけである。 3. <進歩しない><攪乱と均衡回帰>のメタファ 学校教育は,進歩しない。 実際,攪乱と均衡回帰の繰り返しが観察されるのみである。 翻って,攪乱と均衡回帰の繰り返しの止むとき,それは学校数学の終わるときである。 学校教育は「攪乱と均衡回帰の繰り返しをメカニズムにして生きる系」というわけである。 学校数学は,ただ生きる――生きるために生きる。 特に,学校教育は進歩しない。 ここで,学校数学の<進歩しない>,<攪乱と均衡回帰>のメタファになるものを考える。 例えば,「心臓の鼓動」。 学校数学は,「細胞を死なせないための血流を規則的につくり出す」を,自身の<生きる>メカニズムにしている。 「細胞の新陳代謝」も,メタファになる。 学校数学は,「細胞の新陳代謝」を,自身の<生きる>メカニズムにしている。 また,「経済─景気変動」も,メタファになる。 学校数学は,一つの「経済」の系として,「景気変動」を自身の<生きる>メカニズムにしている。 4. 学校数学の攪乱 学校数学を攪乱するものは,学校数学が自身の攪乱装置として自ら備えているものを含め,大小いろいろである。 主要なものでは,先ず人材育成論/学校数学出口論が挙げられる。 世の中には人材論・人材育成論がつねにある。 学校数学は,この人材論・人材育成論に学校数学出口論で応じる。 学校数学出口論は,学校数学の最も自然な攪乱になる。 "新指導要領" は,学校教育の系を攪乱するという形で,学校教育を景気づけることが役割である。 行政による景気対策の一つである。 学校数学出口論には,つぎの「数学的○○」の流れがある:
学校数学出口論は学校数学の攪乱を機能にもつが,この場合の「数学的○○」の特徴は,数学教育学パラダイムとして学校数学を攪乱するということである。 また,学校数学は,2極の攪乱の間の振り子運動を備えている。 「数学を」と「数学で」の2極である。 両者はそれぞれ功罪相半ばであるから,一方への振れが大きくなるとき<失敗>を現す。 これに対する軌道修正として,反転が起こる。 こうして,振り子運動になる。 学校数学は,この自動装置を備えていることで,<新規攪乱の捻出>の労を著しく免れていられる。 5. 学校数学の生体構造 学校教育は,<生きる>系である。 学校教育が現前するとは,学校教育が<生きる>をやれているということである。 学校数学の<生きる>は,攪乱と均衡回帰の繰り返しがこれの形である。 学校数学は,「景気変動」を自身の生きる形にする「経済」の系の一つである。 このときの「景気」の内容は,教員の授業活動である。 活動の高まることが「好況」であり,落ち込むことが「不況」である。 ところでここに,教員は算数・数学科において数学を授業できないという現実がある。 「数学を授業できない」の意味は,つぎの二つである: 教員は,すなわち教職は,こうなる。 「数学を授業できない」は,「教員の不作為」の問題ではない。 「授業力陶冶ができない」は,「教員/教職」の含意である。──ここに「教員は数学を授業できない」の要点がある。 教員/教職は,なぜこうなるのか? 授業以外の業務のために,授業力陶冶が後回しになる。 そして,これを常態にしている。
学校数学は,教員の算数・数学科の授業活動を「景気」にして生きる「経済」の系である。 一方,教員は算数・数学科で数学の授業ができない。 そこで,教員の算数・数学科の授業活動の景気づけは,数学の授業を回避した形にして行うものになる。 この構図には,無理がある。 景気づけの意匠は,<目新しさ>で受け入れてもらうことになる。 内容のない<目新しさ>は,早晩色あせ,飽きられる。 こうして,一つの意匠が終焉する。 これが,「景気サイクル」である。 学校数学は,いくつもの「景気サイクル」が複合した「経済」の系である。 教育の視点からは,算数・数学科の景気サイクルは無意味である。 しかし,経済の視点からは,これこそが学校数学の必要とするものである。 6. 教員活性化の方法原理 教員活性化の方法は,言えば単純である。 即ち,教員のできないことは,教員に突きつけることはしない。 そして,「工夫次第でできるようになる」を示唆してやることである。 教員のできないことは,能力陶冶の長い修業を要することがらである。 特に,主題研究と、理に適った授業構築である。 これを,教員に突きつけないようにする。 「工夫次第でできるようになる」の要点は,授業を能力勝負ではなくアイデア勝負にしてやることである。 能力勝負だと,能力陶冶の長い修業を観念せねばならない。 一方,アイデア勝負だと,「アイデアはそこかしこで提示されているから,何とかなりそう」の思いになれる。 7. 教員活性化の方法 教員には,数学の授業をする力が無い。 即ち,学習主題になっているのは数学であるが,主題研究としてこの数学を押さえることができない。 当然,授業構築もできないことになる。
「理に適った授業構築」は,数学のロジックの捉えの上に成り立つ。 学習主題の数学が押さえられていなくては,授業構築はできない。 教員に数学の授業をする力が無いのは,これまでその力を培ってきていないからである。 そしてその力をつけるために要する長い修業は,教員の負えるものではない。 算数科・数学科の授業で教員に活動的になってもらうためには,数学の授業をする力が無いことを隠してやらねばならない。 「数学で」を言ってやることは,方法の一つである:
「子ども中心」を言ってやることも,方法の一つである:
教員を景気づけるやり方は,できないことは突きつけることをせず,「工夫次第でできるようになる」を示唆してやることである。 「工夫次第でできるようになる」の示唆は,授業を「授業のコツ」の賜として示してやることである。 「授業のコツ」を伝授しようとする者は,そこかしこにいる。 よって,救いを「授業のコツ」に求めることにすれば,「自分は救われる」の思いをいつも持っていられる。 教員は,自校や地域等において,研究・実践課題を持たされる存在である。 この研究・実践課題の意味は,教員をせっせと動かすことである。 すなわち,教員を景気づけることであり,景気対策である。 授業学習会/研究会の意味も,これと同じである。 教員を景気づける装置であり,景気対策である。 8. 進歩と進化 学校数学/教員は,進歩しない。 学校数学/教員は,<攪乱と均衡回帰>をただ繰り返す。 学校数学は,大きな生態系である。 教員のいろいろな種が棲んでいる。 これらの種は進化する。──教員は,進歩しないが進化する。 そして,この系で優勢な種の進化が,学校数学の進歩/進化のように見えてくる。 進化は,自身の<生きる>の条件から逸脱すれば,滅亡になる。 しかし,進化は図に乗ってしまう。 逸脱を犯して,滅亡になる。 「罰が当たる」ということである。 教員の進化は,必ず図に乗る。 教員は,自身の<生きる>の条件に背く形で,学校数学を自分本位の形に仕立てる。 そして,「罰が当たる」を俟つ者になる。 「罰当たり」はどんな相でやってくるのか? 一つは,授業に対する生徒の否定的反応である。「授業崩壊」である。 一つは,「数学の力のない者がつくられる」が世論になることである。 一つの教員種の進化は,「罰当たり」をやり,滅亡で終わる。 ただしそれは,学校数学に棲むいろいろな種の一つの衰退・滅亡に過ぎない。 学校数学は,全体としては,このことで大きな影響を受けない。 自身の<生きる>の条件に忠実な道は,実行不可能な道である。 「王道」と呼ぶ所以である。 教員の王道は,《数学を教える》である。 現実の学校数学/教員は,「優勢種交替」を形にして,全体としては,《数学を教える》からのひどく大きな逸脱は免れている。こうして,自身が保たれている。 この外観は,以前あったことの繰り返しのように見える。 学校数学は進歩しないというわけである。 |