Up | 逸脱の因果応報 | 作成: 2013-01-04 更新: 2013-01-06 |
逸脱に「罰が当たる」ということである。 学校数学は,一つの生態系である。 この系には,いろいろな種が棲むことになる。 そして,これらの種が系の中で生きることは,進化を現すことである。 教員は,種をつくる。 そして,その種は進化を現す。 進化は,進歩ではない。 教員の進化は,《数学を教える》ができない教員の進化ということで,きまって,《数学を教える》からの逸脱になる。 《数学を教える》は,学校数学/教員の<生きる>の条件である。 教員の進化は,学校数学/教員の<生きる>の条件からの逸脱である。 教員は,自身の<生きる>の条件からの逸脱を,自ら犯す。 それは,《数学を教える》からの逃避である。 教員は,自身の<生きる>の条件に背く形で,学校数学を自分本位の形に仕立てる。 そして,「罰が当たる」を俟つ者になる。 「罰当たり」はどんな相でやってくるのか? 一つは,授業に対する生徒の否定的反応である。「授業崩壊」である。 一つは,「数学の力のない者がつくられる」が世論になることである。 一方,「罰当たり」を気づかず過ごせる者もいる。 小学数学 (「算数」) の教員は,このタイプになる。 彼らは,自身の受業評価を受けないで済む立場にあり,そして自身の授業のつけを上級学校に回せる立場にある。 学校数学は,これら進化と「罰当たり」の複合・総合である。 結果として学校数学は進歩しないが,学校数学はもともとこれを自身の生き方とする系である。 学校数学は進歩とは無関係に立つものであり,そして実際,進歩しない。 学校数学は,この系に済む種の進化と「罰当たり」の複合・総合であることにより,全体として,自身の<生きる>の条件からの大きな逸脱を免れている。 即ち,《数学を教える》からの大きな逸脱を免れている。 |