Up | 要 旨 | 作成: 2012-12-27 更新: 2012-12-27 |
学校教育が現前するとは,学校教育が<生きる>をやれているということである。 学校数学の<生きる>は,攪乱と均衡回帰の繰り返しがこれの形である。 学校数学は,「景気変動」を自身の生きる形にする「経済」の系の一つである。 このときの「景気」の内容は,教員の授業活動である。 活動の高まることが「好況」であり,落ち込むことが「不況」である。 ところでここに,教員は算数・数学科において数学を授業できないという現実がある。 「数学を授業できない」の意味は,つぎの二つである: 教員は,すなわち教職は,こうなる。 「数学を授業できない」は,「教員の不作為」の問題ではない。 「授業力陶冶ができない」は,「教員/教職」の含意である。──ここに「教員は数学を授業できない」の要点がある。 教員/教職は,なぜこうなるのか? 授業以外の業務のために,授業力陶冶が後回しになる。 そして,これを常態にしている。
学校数学は,教員の算数・数学科の授業活動を「景気」にして生きる「経済」の系である。 一方,教員は算数・数学科で数学の授業ができない。 そこで,教員の算数・数学科の授業活動の景気づけは,数学の授業を回避した形にして行うものになる。 この構図には,無理がある。 景気づけの意匠は,<目新しさ>で受け入れてもらうことになる。 内容のない<目新しさ>は,早晩色あせ,飽きられる。 こうして,一つの意匠が終焉する。 これが,「景気サイクル」である。 学校数学は,いくつもの「景気サイクル」が複合した「経済」の系である。 教育の視点からは,算数・数学科の景気サイクルは無意味である。 しかし,経済の視点からは,これこそが学校数学の必要とするものである。 |