小学算数では,<倍の合成>を構造とする問題を「割合の問題」と定め,そしてこの問題解決に「1と見る」を用いることが,一般的である。
この「1と見る」は「数は量の抽象」の考え方から出ている。( 「割合の問題の解法」(「数は量の抽象」の立場))
<倍の合成>を構造とする問題の解決がこのやり方で「指導」されるとき,それは没論理であり,数学になっていない。
その授業が教員にも生徒にも苦しいものになるのは,内容が没論理だからである。
苦しいのは,内容が難しいということではない。
──「わかった!」と言う生徒が出てきたら却って困るという代物なのである。
「1と見る」は,数学の主題になる。そしてこれは,「量としての数」の主題と同じである。
この主題は,大学の数学で,代数的構造の同型そして線型空間論をだいぶやったところで出てくる。
それを教えることが,「1と見る」「量としての数」を数学として教えるということである。
当然,初等段階で教えられるものではない。
|
「1と見る」は,数学で言うと,対象にしている量の系Q (例えば,重さ) の普遍対象 (universal object) を,この量の倍作用素として使っている数の系N (例えば,分数) を用いて構成する,という内容である。
普遍対象は,Qの構造の表現という位置づけになる。
──翻って,Qは,普遍対象が体現する構造の一つの現象という位置づけになる。
「1と見る」とは,量の話を,この量の普遍対象に写すことを意味する。
( 「1と見る」の数学)
|
そして,ここが肝心な点になるのであるが,「1と見る」は<倍の合成>を構造とする問題の解決に必要となる内容ではない。( <倍の合成>を構造とする問題の解法)
必要ないことがやられるのは,学習主題の本質を見えなくするだけである。
この章では,この問題をつぎの構成で論ずる:
- 「1と見る」の数学を,確認する。
──これは,小学算数で扱える内容ではないし,そもそも無用である。
- 「1と見る」は,<倍の合成>を構造とする量計算を,混沌としたものにするだけである。
- 「1と見る」を小学算数の内容にするのは,「数は量の抽象」の世界観の満足に過ぎない。
(実際,数は量の比の表現に使えるようつくられるものであって,数を量の抽象とする論は誤りである。)
- 「1と見る」は,小学算数にあるべきものではなく,したがって,やめるべきものである。
- ただし,「1と見る」をやめるとは,<倍の合成>をもとにした「×・÷」の文法が指導内容になるということである。──この変更を至難とするときは,「数は量の抽象」「1と見る」に甘んじるしかない。
「1と見る」の問題は,数学で語ることが必須である。
数学を用いないと,「1と見る」の意味・構造が見えてこない。
没論理の思考に嵌り,ごまかされてしまう。
「1と見る」の数学は初等的ではないが,それは仕方がない。
実際,むしろ問題なのは,おおもとになっている数学の押さえという作業をとばして数学教育の研究に入ってしまうことである。
|