Up | <複雑系=均衡系>の科学の欠如 | 作成: 2007-01-08 更新: 2007-01-08 |
体は,複雑系=均衡系である。 治療は,この均衡を壊す。 見当違いの治療を行うと,悪影響が各所に及び,ときに命取りになる。 治療は,加害と裏腹である。 治療が加害と裏腹であるからといって,病気をそのままにしておくというスタンスはとれない。 妥当な治療法を見出し,決定するには,どうするか? 体や病気や治療技術を科学する。 後は,自分の裁量と責任で行動する。 医者が治療に対して慎重になるのは,治療の失敗は病人をより重病にするとか死なせてしまうことになり,このことで加害責任を負うことになるからだ。 さて,学校教育の施策決定はつぎのように行われる: ここに,学校教育や教育問題や教育技術を科学した者はいたか?──いない。 施策の失敗において加害責任を負う者はいるか?──いない。 ここには,<無責任>が歴然としてある。 そしてこの無責任は,現場の無責任と連動している。 すなわち,学校教育の施策決定が
この無責任のつけは,学校教育を受ける側がかぶる。 「第三者が,現場の行動の仕方を決め,現場に下知する」がまかり通るのは,基本的に現場の側に問題がある。 一昔前には,現場における「自分の裁量と責任で行動する」は,党派的な行動による対立を含意した。 実際,党派性の入り込む余地が無いと思われる数学教育にも,これがある/あった。 これが後を引く形で,学校教育系の学会はたいてい別々に立っており,特に,学校教育を科学し自分の裁量と責任で施策を立てることを担う学会が,存在しない。 また,地方自治体の教育委員会が「自分の裁量と責任で施策を立てる」を担当するかというと,それは委員会自体が望まないだろう。 こうして,行政が言い出さなくとも,画一的な施策の決定が行政に委ねられることになる。 しかし,行政が施策決定の作業をするときには,学校教育・教育問題・教育技術の科学はなくなる。 (実際,科学を担えるのは現場であり,科学を行政に求めるのは筋違いである。) ──施策は,有識者の思い思いの発言からつくられる。 こういうわけで,学校教育論が「Aか非Aか」の振り子運動を現し,そして学校教育がこの振り子運動に振り回されるというのは,構造的な問題である。 この構造を改めない限り,ディレッタンティズムが学校教育を主導し続ける。 ディレッタンティズムは,科学や歴史を意識しないところで生きられる。 逆に,ディレッタンティズムがまかり通るのは,科学や歴史が体をなしていないということだ。 よって,学校教育を<複雑系=均衡系>として捉える科学を立てることが,第一の実践課題になる。──迂遠なようでも,土台を欠いては仕事が立たない。
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