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高倉新一郎 (1959 ), pp.136,137
幕府が最も力を注いだのは東蝦夷地各場所の直捌だった。
すなわち、この地を直轄に移すと共に場所請負制度を廃止し、
場所を整備し、
各場所に係官を駐在させ、その場所の行政に当ると共に、
場所請負人から引継いだ施設を拡張し、
支配人・番人等を使って蝦夷交易及び蝦夷を使役しての産業に当らせたのである。
それに要する物資を仕入れ、もしくはこれを売り捌くためには、
江戸・箱館を始め全国各要地に会所を設け、
用達・用聞を置き、
船舶を買上げ又は新造し、もしくは雇船をして、その連絡をよくした。
それは、さきにのべた御救交易を大規模化したものであった。
運上屋は会所と改められ、幕吏が詰合い、従来の運土屋としての機能の外に公務をも行う出張役所としての性格を帯びて来た。
建物はほとんど全部建替えられ、旅宿所・倉庫・作事小屋・番屋などの付属建物も周囲に著しく増加した。
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同上, pp.139,140
大場所と小場所があり、場所の広さ、産物の多寡によって異るが、何れもその中心となる会所元には、
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米・塩・網・産物等を納める倉庫、
大工・鍛冶等の作業所である作事小屋、
通行人の宿泊、人馬継立等に当るための下宿所・通行屋・旅宿所などと呼ばれる建物、
厩、
堂社
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等に固まれて一部落を作っていた。
会所の建物は小さくて五十坪、大きいのになると百坪以上の大建築で、多くは床の間付の座敷をともない、上級官吏の宿泊にそなえ、
文化四 [1807] 年のロシヤ来襲事件以後は周囲に土手を築き、柵をめぐらし、一大官衙の形となっていた。
堂社は弁天・稲荷など船乗りや漁業者の信仰するものが多かった。
会所元以外の重要な個所の番屋は、多く通行屋を兼ね、常に番人がつめていて、産物の多い所などは倉庫なども持ち、小さな会所に劣らないものもあった。
宿と宿との間には、昼休所があり、官吏の旅行には会所元から出張して弁当・湯茶などの用意をし、その間には適当な位置に仮作りながら小休所があった。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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