|
久保寺逸彦 (1956), pp.157,158
アイヌの詞曲の表現には、もちろん、同じく雅語を用いても、地方的な違いもあり、個人的にも違いもあるが、少なくとも、その表現の語句は、驚くべきほど常套的である。
常套的な表現の語句は、ある場合の叙述には、必ず用いられなければならぬ。
聴く方でも、およそ、次はいかなる語句が謡い出されるかほぽ見当がつく。
例えば、小英雄と他の数人の豪傑とが、戦闘するとなると、その争闘の仕方は何人とやっても、同一なのである。
ただ変わるのは、その対手の豪傑の固有名詞だけ、あるいはその争闘の行われる場所だけである。‥‥‥
私も、いくつか書いているうちには、常套句も記憶できるものも出て来るので、伝承者のちょっと休憩しているうちに、何行か先を書いて置いて、伝承者が始める前に読んで聴かせて、伝承者をびっくりさせたことがある。
|
|
ユカルは,演者によって,また同じ演者でも一回一回,ことばが違ってくる。
それは,ユカルの<謡う>が,詞曲の生成だからである。
長大なユカルを延々と謡うことがなぜ可能かというと,<生成>をやっているからである。
<生成>を導いているのは,形(かた) である。
ユカルの構成は,歌と同じである。
ユカルは,大同小異のエピソードを重ねていくが,これは歌の1番,2番,‥‥‥ に相当する。
エピソードの「大同小異」は,歌の1番,2番,‥‥‥ が同じ形式であることに相当する。
歌には,サビ (モチーフ) がある。
歌はサビに向かうように構成されている。
ユカルでは<リフレイン>の部分が目立つが,これが歌のサビに当たる。
引用文献
- 久保寺逸彦 (1956) :「アイヌ文学序説」, 東京学芸大学研究報告, 第7集別冊, 1956
- 『アイヌの文学』(岩波新書), 岩波書店, 1977
|