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高倉新一郎 (1974 ), pp.127-129
樺太アイヌは犬ぞりを持っていたが、
北海道アイヌは旅といえば歩くことであった。
そして長途の旅行は、海岸沿いもしくは見通しのきく足場のしっかりした堅雪の季節を選んだ。
‥‥
内陸の旅は、多く沢伝いに獣の道などをたどり、沢を上りつくすと山の尾根に沿って次の沢上まで歩くのだった。
この方が見透しがよくきき歩きやすかったからである。
今日アイヌが常に通った道をたどると、最短距離が選ばれているのに驚く。
アイヌの地形に関する知識は実にすばらしいもので、今日残る地名でもわかるように、実に細かい所まで観察され名がつけられていた。
‥‥
アイヌは旅行には必ず弓矢その他の狩猟具を携え、食料は現地調達をした。
また夜になると手に入る適当な材料を使って仮小屋を作って泊まった。
雪の中などでは雪穴を掘り、持参のむしろで寒気をしのいだ。
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つぎの話は,時代が降り,道路ができ,弓矢が猟銃に変わっている頃のものだが,「旅といえば歩くこと」「狩猟具を携え、食料は現地調達」「夜になると手に入る適当な材料を使って仮小屋を作って泊まった」を伝える:
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砂沢クラ (1983), pp.10,11
私が、まだ小さかった四歳の夏 (明治三十四 [1901] 年) のことです。
私は母におぶわれ、父に連れられて、旭川からヌタップカムイシリ (神の山=大雪山) を越え、佐呂間の猟場をめざして歩いていました。
この時、父クウカルクは二十五歳、母ムイサシマットは、まだ、二十歳でした。
佐呂間峠を登っている途中でした。
父が、「どこかでエベレ(クマ)の泣き声がする」と言って、背の荷物を投げ捨て、山の上の方へ走って行きました。
私と母は、道路 [「北見道路」] わきの草わらの中の溝に隠れました。
「ドォーン」と村田銃がなり、父が大声で呼ぶので行ってみると、まだ若いクマが死んでいました。
母グマは逃げ、この二歳子が木に登って泣きわめいているところを父が撃ったのだそうです。
クマの泣き声は父だけが聞き、私も母も聞きませんでした。
‥‥
それから、近くの沢に降り、フキの葉でふいた仮小屋を作り、クマの肉を炊きました。
とてもおいしい肉で、私はおなかいっぱい食べました。
夜になると、私は逃げた母グマが戻ってくるような気がして恐ろしくなり、泣き出ました。
父と母は「泣くな。私たちは大きな火をたいているから心配はない」と、何度も何度も言って、炉の火をどんどんだいてくれました。
私は、夜空が明るくなったころ、やっと眠りにつきました。
翌日からは、この仮小屋に子グマを祭って、カワウソ猟をすることになりました。
クマの肉は、母が干し肉にするため、大きな塊のままさっと湯にくぐらせ、それを二、三センチの厚さに切って、炉の上に張ったひもにかけてゆきます。
こうすると、味もよくなるうえ長持ちし、軽くなるので背負って帰るのも楽なのです。
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同上, p.13
夏の山猟は、七月の初めから八月いっぱいまで、
イチャニウ(マス) やチライ(イトウ) などの川魚や
トゥレップ(ウバユリ)、チマキナ(ウド)、キトピロ(ギョウジャニンニク)などの山の野菜を食べながら
山に寝泊まりし、
カワウソを捕り、
行き会えばムジナ、クマ、シカなどのけものもとります。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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