商品経済は,企業のそれぞれの分野で,技術革新が起こり,技術革新が進められる。
場所も,このようなところである。
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高倉新一郎 (1959)
pp.51-53.
鮭はアイヌの生命であって、秋川に遡るのをマレック (ヤス) で突き、或いはウライ(梁) で止めて捕え、縦にいくつかに割いてこれを干し貯え、アダツもしくはミケルイ等と呼ぴ、冬中の重要な食料になっていた。
干鮭は鮭の内臓をとっただけで丸干にするので、アダツ等とは製法が違い、恐らく北陸辺の干鰤などと同じくこの方面の製法が蝦夷に伝えられ、蝦夷は自らの食料を貯えたり残りをこれに製して交易に出したものだろう。
二十本を一束といい、白米一俵に付五束と交換されるのが常であった。
しかし、本州ではすでに塩鮭の需要があり、商船が塩を積んで鮭の遡る川に行き、蝦夷のとった生鮭を買ってこれを船中で塩切にして本州市場に送った。
松前では天河・知内等の諸川が有名であり、蝦夷地では尻別・石狩・染退等の諸川が有名であった。
ことに石狩川等は狄になると鮭で水位が高まるという位に遡り、‥‥‥
川上では多くの干鮭が生産された。
だから鮭だけでも大きな船数艘分の産額があったので、船一艘に付若干と運上金を決めて船を出すものがあった。
鰊も、鱈も、昆布も、もとは松前及びその近海でとれていたものが、次第に奥地に及ぷようになり、鮑を串にさし、ゆでて干した串貝も珍重され、生産を増して行った。
鱒も寛文頃からとれ出していた。
こうして蝦夷地の産物がふえると、場所持は藩に願い出て、積取船の数を増した。
その時は積出す産物の品目を決め、一定の運上金を藩に納めるので、場所の交易に関係のないものならば藩士以外のものでもよかった。
水戸落の快風丸なども、石狩の鮭を交換するというので許されたのである。
pp.58,59.
日本海岸の航路が益々進展して、‥‥‥松前と京坂とが直接海でつながるようになった‥‥‥
船も丈夫に且つ大きくなり、蝦夷地行の船も縄綴から釘打船に変って、航海が安全になった。
広い市場を持ち輸送が安全になり、輸送量もふえたので、松前地方の産物は勢い蝦夷地に伸びると共に、新らしい商品が可能となったのである。
例えば煎海鼠・串貝・昆布などは、主として松前の産物であったが、元文年間、幕府がこれを長崎における清国交易品に加えてからは、急にその需要が増加し、松前産のものだけでは足らず、蝦夷地に及んだのであった。
昆布などは最初蝦夷地といっても箱館付近から森付近までのいわゆる六筒場所に限られていたが、寛政年間には、日高・十勝・釧路海岸に及んでいる。
煎海鼠も宗谷まで及んだ。
p.61,
魚の加工で進んだのは、魚油・締粕の製造だった。
魚油は最初鯨・海豹・トド・キナンボウ等の指身をとかして樽につめたものであったが、享保以後鱒・鰊・鱈その他雑魚を煮て締木にかけて搾るようになった。
そしてその粕は干して肥料として売り出されることになった。
魚粕肥料は本州の干鰯にかわって身欠鰊の屑などがそれにあてられていたが、近畿地万の綿・藍等の商品作物の肥料として歓迎されるようになると、大量を短時間で処理することが出来、貯えて置いて適宜に積み出すことが出来たので、干物としてよりは粕に製造するものが多くなり、漁獲物の種類の増加と共に、漁場の範囲を拡げて行った。
鱒などは干魚や塩切にしては引合わず、粕にし、油にして始めて遠い地方まで漁場を拡大することが出来たのであった。
鰊もそうである。
p.62,
こうして蝦夷地産物の販路が拡がり、加工が進むと、漁獲法・製造法も勢い変らざるを得なかった。
例えば鮭は蝦夷はヤス又は銛で突いたり、ウライという止めを使ったり、鈎で引かけたり、簡単な網ですくったりしていたが、次第に引網が使われるようになった。
鰊は最初、海岸によせて来るのをタモ網などですくっていたが、後には松前にならって差網が用いられるようになり、さらに笊網とか、建網とかいった大規模なものが使われるようになった。
海鼠もヤスで突いてとっていたが、八尺網と呼ぶ網を海底に引きずってとる方法がとられ、昆布なども、水中に入って鎌で刈っていたのを、種々な道具で多量に採取出来るようになった。
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商業経済の資源採取業は,<取り尽くし>になる。
商業経済の漁は,乱獲になる。
そして,漁は不漁になっていく。
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同上
pp.178,179.
実際、鰊は松前の宝で、松前の人はこれで生命をつないでいるといってもよかった。
元文二年 (1737)「北海随筆」に
「 |
錬漁誠に海内一の大漁なるべし。
‥‥‥此魚数十年来不漁と云事なく、其漁時分にはおのづから松前に寄り来て年々時節をたがえず、春分十日過より寄り来る。
凡二十日程の内に二三度寄来りて、其時漁を得れば翌年までの渡世是にて済むなり。」
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といわれていた。
このころは干鰊は南部・津軽・出羽・北国・近江にわたって肥料に用いられ、鯑はほとんど全国に拡がっていたが、その後干鰊は畿内、西国にまで拡がり、漁獲も盛んになって、明和年間は最も盛んであった。
ところが安永五〜六年 (1776〜7) 頃から福山地万が不漁になり、天明ニ〜三年 (1782〜3) 頃から江差地方も漁が少なくなって、四年以降はますま甚だしくなった。
そこで漁民は追錬と称して続々西蝦夷地に出漁し、瀬田内から歌棄に至る各場所には多くの鰊小屋を見るようになったので、西蝦夷地の鰊漁は著しく発達するようになった。
ところが寛政四〜五年 (1792〜3) から蝦夷地も松前に近い地方がまた不漁になったので漁民はさらに石狩辺まで追鰊が許されることになった。
松前地方の不漁は文化四年幕府が西蝦夷地を直轄してから再び恢復したが、追鰊は依然として続き、歌棄から小樽内までが最も多く、先端は厚田に達し、天保十一年 (1840) には増毛に及んだ。
これらの出漁者に対しては、瀬田内から南は収獲高の一割を、それより奥地では、東蝦夷地の出稼漁夫と同じく収獲高の二割を場所請負に納めることになったので、請負人は座して二割を収獲することが出来たため、この出稼ぎを歓迎した。
p.180,181.
松前地方の不漁による鰊製品の値上りは、又蝦夷地の鰊漁を大規模化した。
従来松前地の鰊漁に小さな刺網しか許されていなかったが、蝦夷地では天明頃すでに大網を使って締粕を製造し、名目は雑漁であったが鰊にも及んでいたらしく、寛政元年、凶漁にあえぐ江差地方の漁民は、これが凶漁の原因だとして騒いだので、藩はこれを禁止したことがあった。
しかし禁止は徹底せず、奥地では依然として使用が続けられ、天保年間には近くの蝦夷地まで使い出したので、十四年再び禁止した。
しかし、西蝦夷地請負人一同は、差網の使用が出来ない所及び追鰊業者がすくなくて差支えのない所に限り、鰊取浜中が相談の上異議のない場合には使用しても差支えがないとの特典を受けた。
そしてこれを口実に益々その漁場を拡張し、中には迫鰊業者でもこれを使って漁穫する者が出来て来た。
‥‥‥
刺網には 網一流に数人の人で 漁業中の宿泊も仮小屋ですんだが、建網には 一統に二〜三十名の船頭・漁夫を要し、それを宿泊させる漁小屋も勢い大きなものでなくてはならなくなった。
ところが、鰊の豊漁地帯は蝦夷の戸口がすくない所が多かったので、大網業者は勢いその労働者を松前・江差、さらに南部・津軽などから求めねばならなかった。
そして早春、大船を仕立てて漁場に送り込んだ。
漁家ことに運上屋番屋は大きくなっていった。
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場所請負は,「運上金」というノルマが課せられている。
海運は,リスクがある。
場所組織は拡大し,組織の大きさが場所経営の重荷になってくる。
そして,漁は,不漁と見合いである。
場所経営は,困難の度を増していく。
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同上
pp.163,164
場所請負人の任務は、会所もしくは運上屋が蝦夷交易・漁業等に当る外、蝦夷の介抱、官用書状の継立、官用旅行者の宿泊、人馬継立等公用の一部をも負担し、その他道路の台場・勤番役所の修理維持、非常の備え、すなわち兵糧米の管理、幕串・松明の用意など一切の経費を支弁させられたので、非常に重くなったかわりに、又その場所における勢力も大きくなっていた。
例えば、嘉永元年 (1848) ネモロ・国後両場所を請負っていた柏屋喜兵衛が、損耗甚だしく、取締り難いので、請負人辞退を申し出た。
松前藩では驚いて慰撫し、ようやく藩で直営し、喜兵衛がこれを差配するということで落付いた‥‥‥
pp.166-168..
その場所の請負人は営利を目的とする一商人だった。
ところが、豊凶のはげしい漁業を基礎とし、遠隔の地を往復するために、収益が極めて不安定で、危険が伴ったばかりではなく、負担が又極めて重かった。
今、東蝦夷地のように整理されずに残った西蝦夷地の場所請負人の負担を見ると、運上金の外に、新しい産業を興すための冥加金,一定以上に産額があった場合の増金があり、差荷料・土乗金などの名目がある。
差荷料とは場所の産物を知行主に贈ったものが定量化したもの、上乗金とは上乗役の費用を請負人が負担していたのが衡久化したものである。
その外に文化十年からは運上金の百分の二を請負人から取り立てて松前地方に備米をし、住民困窮の際にあてた二分金があった。
その運上金は、契約期限が来ると競争入札に処せられる。
豊かな場所程希望者が多く、競争がはげしく、他に奪われるおそれがあり、負担は勢い増加する傾向にあった。
嘉永六年調べによると、これらのすべての負担をふくむ運上金の総額は西蝦夷地 一万八百三十一両二分、東蝦夷地八千四百三十九両余で、合せて一万九千二百九十両二分余、天明六年の調査からすれば約四倍になっていた。
産額の増加もあったと思われるが、東蝦夷地の運上金の急騰は文化九年の競争入札によるものであった。
安政以後には、各場所が負担していた勤番の費用が幕府の再直轄によってかからなくなったので、これをそのまま仕向金として運上金の中に繰り入れたが、その金が年々六千三百両に達していた。
請負人はこうした正規の運上金の外に藩からは御用金や立替金を命ぜられ、幕府になると、種々の臨時費用が増運上金の形で課せられた。
これらのものを契約期間中に回収せねばならぬとすれば、勢い出来る限り義務を怠り、時に施設を荒廃させ、さらに収益を挙げるためには資源の枯渇をも省みなくなるのは当然であった。
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漁に不漁の確率が増えることは,漁がギャンブルになるということである。
漁がギャンブル化することは,出稼ぎもギャンブルになることである。
即ち,場所への出稼ぎは,不漁の時は報酬が出ず,<ただ働き>になる。
時代は降るが,つぎのような感じである:
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砂沢クラ (1983), pp.99-101.
大正二年、私はアイヌ学校を卒業しました。
‥‥‥
しばらくして、いとこのカモンコル (和名キクメ) とポロクエエカシの娘ナカから「浜益のニシン漁へ行かないか」と誘われました。
母は「若い娘を浜などにやれない」と反対したのですか,私は行くことに決めました。
お金もほしかったし、まだ一度も見たことがなかった海を見たかったのです。
それに、女学校へ行けなくなったので、どこへでも行こうという気になっていました。
浜益の山の上から初めて見た海は、大きくて広くて、ほんとうに驚きました。
浜で働いている人は、みなやさしい、いい人ばかり。
アイヌの人もたくさんいて、飯場で一緒になったエカシとフチは「川村の家の娘か。モノクテエカシの孫を見るとは思わなかった」と言って、浜でも飯場でもやさしくしてくれ、おこづかいもくれました。
私たちが着いたすぐあとに漁があり、陸揚げしたニシンをモッコに入れて運んだり、ニシンカスを干す仕事をしたのですが、その後はさっぱりニシンがとれません。
ごはんはいくらでも食べさせてくれるのですが、出面賃が一銭も入らないので、半月ぐらいいて、旭川に帰ることにしました。
一生懸命働いて、たくさんお金を持って帰り、女学校へ行くための着物とはかまを買うつもりだったのに。
親方が「かわいそうだ。汽車賃にしなさい」と生ニシンをモッコにひと背負いずつくれました。
このニシンを裂いて干し、ミガキニシンにして町で売ったのですが、三人でおみやげ用にニシン油を一缶買い、滝川から旭川までの汽車賃一人五十五銭払ったら、一円も手元に残りませんでした。
お金は入りませんでしたが、海も見たし、アイヌ地問題で私たちのために働いてくれた天川(恵三郎)さんの家も訪ねることが出来ました。
天川さんは、いなかったのですが、奥さんのキクさんが、とても喜んでくれました。
私たちが小樽経由で送ったニシン油は、送り賃も入れて三円もしたのに、なぜか、とうとう届きませんでした。
なっぱでもなんでも、油いりするとおいしいので楽しみに待っていたのですが・・・。
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不漁に当たった出稼ぎは,「三度の食事」が報酬である。
翻って,ギャンブル承知の出稼ぎは,「三度の食事」が報酬である。
そして,実は,これはアイヌの出稼ぎの本質を表している。
即ち,「出稼ぎ」が「奉公」だということである。
「奉公」というのは,「三度の食事」が報酬になる労働のことである。
「頭減らしに子どもを奉公に出す」の「奉公」である。
「奉公」物の小説・TVドラマは,「ひどい食事」「ひどい扱い」が定番である。
奉公人扱いは,このようになるものだということである。
しかもアイヌの場合,奉公先が<経営悪化の場所>ときてる。
経営悪化の場所は,人件費切り詰めが行われる。
こうして場所は,「アイヌに対する非人道的扱い」を現すところとなる。
──但し,出稼ぎは「強制連行」ではないので,《酷い目に遭うだけだから,出稼ぎには行かない》の選択は,あり得たわけである。
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窪田子蔵 (1856), 25/34
夷人申様は、運上屋我等を虐使する事殊に甚し。
春二月鯡漁初めてより引続夏は昆布とり、又鮑魚捕り、秋は鮭漁、其間には魚漁の支度、網繕ひ等まで紛々無レ限事に候。
漸く十一月に至り私家に帰る事を得るなり。
然らば我等年中家に居るは冬より春へ僅三月なり。
如レ此に骨折候とも、運上屋我等に報ゆるに木綿一反或ひは青銭六百文に過ぎず、
昨年リイシリの島へ行き役を取り、三四月勤め候とも、一銭の報も与へず、
余り此如き事甚敷打続候へば、此節は自然漁事勤むるもの無レ之、大概に打置候。
されば漁事も年々少なくなり候なり。
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- 引用文献
- 窪田子蔵 (1856) :『協和私役 三』
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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